宵闇が完全に辺りを支配する中に、赭い提灯が風で揺れる。
それが境内に向かって幾つも垂れ下がる鳥居の柱に背を預けてリョーマは佇む。
夏祭り
話の発端はこうだ。
部活を終えて体を疲弊しきったリョーマがありついた夕飯の席で母親が切り出した。
リョーマは日本のお祭りは昔行ったことがあるけれど、覚えていないでしょう?
と。
今晩すぐ近くの神社で夏祭りがあるから行ってらっしゃい、と母親はテーブルの向かいに腰掛けて微笑んだ。
「祭り?やだよ。人込み凄いんでしょ?」
「あら、リョーマ、あんなに小さかった頃の事覚えてるの?」
まだ私が簡単に貴方を抱けるくらいの頃だったのに?
母親は文字通り目を丸くしてからクスクスと笑った。
「今じゃ抱き上げることなんて出来なくなったわね。大きくなって」
どこか寂しそうにそう言う母親にリョーマは苦笑する。
部活ではチビだと言われているのに、この母親にとっては自分はもう随分と大きくなったように見えているのだ。
嬉しいような、どこか擽ったい気持ちに囚われた。
「昔の浴衣ももう入らないわよね」
「入るわけないじゃん。オレがいくつの時の浴衣だよ、それ」
母の腕に抱かれていた頃のものなのだろうから、当然、着られる代物ではない。
腕だって通りやしないだろう。
残念そうに嘆息をもらす母親にリョーマは笑む。
こういう母は息子乍ら可愛らしいと思う。単純に。一人の男として見ても。
幼い頃も成長した今も自分を慈しんでくれる愛情は決して変わらないのだ。
憎らしいぐらいの父親とこの母親とを比較なんてできない。
圧倒的に母親の方が好きだ。
その母親が何かを思い出した様にぱちりと手を打った。
「そうだわ、あの人の若い頃の浴衣なら入るんじゃないかしら?」
「え。親父の?母さん、オレ、親父のなんて絶対着ない」
「あら、じゃあ私のでも着る?」
「冗談。っていうか、いつの間に祭り行く事が決定になってるの?」
「行ってらっしゃいよ、リョーマ。好きな子と行けばいい思い出になるわよ?」
母親の発した『好きな子』という単語に夕食を口に運んでいたリョーマの手がつい止まった。
それを見て、驚くのは今度は倫子の番だ。
「あら、リョーマ…」
「……」
黙って箸を動かし出す息子の目許が薄く色付いていることに気が付いて、倫子は柔和に目を細めた。
「好きな子がいるのね?」
「………」
「遂にリョーマにも好きな子がねー…。お母さんちょっと悲しいかも…」
悲しい、と言い乍ら彼女は満面の笑みだ。
その様は自分の息子の成長ぶりに満足している様子だった。
「可愛い子なの?」
「………」
「私のリョーマが好きになる子だもの、絶対可愛いに決まってるわよね」
「…母さんも、大概に親ばかだよね?」
にっこりと笑いながら頬杖を付く母親に、リョーマは困った様に苦笑して箸を置いた。
「あら、リョーマには敵わないわ」
「え?」
「そろそろ親離れの兆しでも出て来ても良い頃なのにね」
貴方も大概に私の事が好きね。
ふわりふわりと笑ったまま、倫子はリョーマに腕を伸ばして軽く髪を梳いた。
その動作に自分の恋人もよく同じ事をすると思い出して、リョーマはその指に身を委ねた。
あの人に髪を梳かれるのを好きなのは、母親に幼い頃からこうして髪を梳かれていたせいかもしれない。
この事を話したらあの人は怒るだろうか、呆れるだろうか。それとも目の前の母親の様にふわりと笑うだろうか。
そう思うとあの年上の恋人に無性に会いたくなった。
祭りは好きな子と行くと良い思い出になるわよ、先刻の母親の言葉も思い出されて。
リョーマはうっすらと閉じていた瞼を持ち上げた。
目の前にはにこりと笑ってくれている母親。それに同じ様に笑い返した。
「祭り、行くよ」
「あら、そう。じゃあ、南次郎の浴衣、リョーマのサイズに合わせておくわね。リョーマにはまだ大きいと思うから」
そうして席を立つべく、遊んでくれていた母の指は髪の合間からすり抜けた。
その感触を名残惜しく思い乍らも、リョーマは母を視線で追った。
「ちょっとかかるかもしれないから、そのうちにご飯平らげて、その子に電話してなさい。それでも時間が余ったらお風呂にでも入ってから行くといいわ」
視線の先で振り返った母親の言にこっくりと一つ頷いて、リョーマは卓上に置いていた箸を握り直した。
それから軽く半時間程が経ち、リョーマは手塚に電話をして夏祭りに誘うことに成功した。
母の様子を見てみれば、もう少しかかりそうだったから軽く湯浴みをした。
本当は長湯が良かったのだけれど、そこまでしていると母親と手塚を逆に待たせてしまうから。
浴室からあがって、母の傍らで待つ事数分で作業は終わった。
一度仕立て上げたばかりの浴衣をリョーマに羽織らせてみて、ぴったりね、と母は自慢気に笑ってみせた。
それは自分の腕への誇らしさだったのか、自慢の息子に最愛の人の浴衣が思いの外似合っていたからなのか。
そしてリョーマに浴衣を着付けてから母はまた楽しそうに笑った。
今日はよく笑うな、とリョーマはぼんやり思ったけれど、そんな笑顔の母は好きだからいいかと思えた。
そんな母に玄関先まで見送られて自宅を後にし、神社の鳥居の前で手塚を待つに至っている。
待ち合わせの時間にはまだ数分ある。
いつもはこの時間には手塚は来ているものだけれど。
それを不思議に思いこそすれ、リョーマは大人しく待った。
あと一つ時計の針が動いたら手塚家に電話でもかけようと思った。
そんな風にリョーマを長閑にさせる程に夏祭りは予想以上に幻想的で。
真っ暗な中に揺れる提灯が鮮やか過ぎて。
神社に敷き詰められた砂利がその灯りを受けて角を橙に染めていて。
人込みは確かにあるけれど苦になる程ではない。
人がわいわいと話し通うその場の雰囲気を珍しく楽しいとリョーマは思えた。
「越前」
ぼんやりと行き交う人や奥の境内を眺めていたら不意に上から待っていた声が降って来た。
来た、と見上げればやっぱり愛しいその人の顔があって。
「…て、部長?そのカッコ…」
「お前こそ、まさか浴衣で来るとはな」
いつも通りの涼やかな表情から視線を下に落とせば、手塚も自分と同じものを纏っていて。
違うとすれば、自分は薄い藍色に濃紺で七宝繋ぎに矢羽の柄が入っているのに対して彼は白。裾にリョーマは名を知らないだろうが、籠目に束ね熨斗の上品な柄が桜鼠色で、腰元に従って淡く霞むようにして入っていた。
只でさえ白い手塚の肌が際立つような艶やか過ぎる手塚のその様に、リョーマは思わずごくりと息を飲んだ。
「…部長、似合い過ぎ…」
「そうか?変じゃないか?」
照れているのか、苦笑するように緩く眉根を顰めてみせる手塚に、リョーマは力の限り首を横に振った。
「ううん。すっごい…すっごい、似合う」
「…そうか。お前にそこまで褒められると悪い気はしないな」
綻ぶ目許は微かに朱を差した。
人知れずリョーマの体温は上がった。
「お前もよく似合っている」
表情を心持ち綻ばせたまま告げるその言葉はリョーマにとって殺人兵器にも近い。
どくりどくりと先刻から心臓が五月蝿い。
ひょっとしたら顔が――凄く赤いかもしれない。
それを自覚すると、酷く恥ずかしくなった。
手塚の一言だけでこんなに照れているなんて。
「あ、ありがと。でもね、親父のお古なんだってさ」
咄嗟にリョーマは視線を自分の足下へ移した。
揃いも揃って二人とも足下まできちんと下駄を履いているそれは少し可笑しかった。
「多分、選んだのは母さんだと思うけど―――」
明らかに母親の趣味なのだ。この柄、この色は。
最も、あの父親が浴衣なんて几帳面なものを買うとは思えなかった。
今の僧衣だって貸し主が置いていったものを着ているにすぎないのだ。しかも毎日着ている。
自分も父親のことを強く批判はできないけれど、色々とあの男の方が無頓着なのだ。
「そうか、越前のお母さんが…」
そこで一度言葉を区切った手塚を不思議に思って、リョーマは視線を上げた。
そうすればこちらを上から下までじろじろと不躾なぐらいに見てくる手塚の視線とかち合った。
「な、なに?」
何事だろうかとリョーマに思わせる程に手塚はリョーマを見ていて。
思わず、リョーマの言葉は吃った。
そんな慌てるようなリョーマとは対照的に手塚は、一拍余裕を置いてから口を開いた。
「いい御趣味をしてらっしゃる」
実に満足そうにそう言われて、リョーマは一瞬面食らうが、手塚の有り様が家を出る前の母親と似ている様に感じた。
何よりも、自分の母親をセンスがいいと褒めてもらえた事が訳もなく嬉しかった。
自然と、リョーマは朗笑した。
「ありがと」
夏祭り。
何せ、夏祭りってやること多すぎて何させたらいいのだか。
判らなさ過ぎて、まあ、夏祭りは触りだけ、という感じで。
えちっこはちょっとマザコン入ってるくらいが丁度いいと思います。
ママーっvって言うんじゃなくて、なんて言うんですかね、凄くお母さん大好きで、信頼してて尊敬してる、という感じ。
リョ塚というよりも、リョ倫みたいになってしまった…。(待って!)
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