助走
「大石先輩も字、上手いッスよね?」
部活の終わりに大石は後輩に捕まった。
幼さ故かまだくりくりと大きな眼差しでこちらを見上げてくる所作は可愛らしい感じが無いと言えば嘘になる。
けれど、大石は彼のその容姿からは些か離れた本性、本能などは心得ていたので、眸の奥で爛々と光る『何か』を感じ取ってしまった。
身に緊張を走らせつつも、大石は一拍置いて口を開いた。
「上手いかどうかは判らないけれど、人並みには書けると思うよ?」
「そうッスか。…。頼み事があるんですけど」
時と場所は変わり。
越前家門扉前にて。
日曜日。雨。
天候故に本来ならば行うべき部活動も中止にならざるを得なく、暇を持て余した手塚が訪れていた。
雨で中止になるというのは正直、部長として痛いわけで。
生徒会長、という権限でも公使して来学期には室内コートにでも変えてやろうかと思ったり。
雨が雲から零れてくるように、手塚もだらだらと思考を巡らせた。
「ごめんください」
越前家の門扉を開いてそう声をかければ、廊下の奥からもう見知った姿が現れる。
ただ、目的の人物ではないけれど。
「あら。手塚さん、いらっしゃい。リョーマさんでしたら、今日は自室に籠って勉強してらっしゃるの。どうぞ上がってくださいな」
漆黒の長い髪を揺らせ乍ら、彼女が掌で2階へと続く階段を指し示した。
そんな彼女にぺこりと軽く頭を下げて手塚は靴を脱いだ。
(それにしても、越前が勉強とは…)
明日も雨か?
階段を一段一段上り乍ら手塚は緩く首を傾げた。
そうこうしている間に目的の部屋の扉の前へ辿り着く。
礼儀として、ノックを2回。一拍置いて扉を内へと開く。
いつもなら、扉を開けばその目の前でテレビに向かってゲームをしている姿があるのに、今日はそれがない。
つい、と視線を左に動かせば、勉強机に向かって何やら手を動かしている。
扉が開かれたことなど気付いていないかの様に黙々と。
従姉である菜々子から聞いた通りの模様に、手塚は感心とばかりに一つ頷くが、一生懸命過ぎるのか姿勢が前傾過ぎることが気にかかった。
リョーマへと一歩近付いて、その腰を後ろから押し、肩を後方へと引いた。
「わっ!」
唐突に自分に触れて来た手に驚いて、リョーマが振り返った。
「姿勢が悪い。猫背は癖になるぞ」
「…て、え?部長?てっきり菜々子さんかと思った」
どうやら扉が開く事には気が付いていたらしい。
けれど、玄関で声をかけたのには気付いていなかったらしい。
まあ、それに気付いていれば玄関まで駆けて来たのだろうけれど。
「今日は真面目に勉強しているそうだな。おかげできっと明日も雨だ」
「…何でそういう事言うかな…」
む、と不機嫌そうに少しばかり目を細める。
そんなリョーマの肩越しに手塚は机に広げられた紙片へと目を落とした。
「なんだ、漢字の勉きょ…」
紙一面につらつらと書かれた文字を見て、そう思うが、何と書かれているかを認めて、手塚は言葉に詰まった。
覗かれた事に気が付いて、リョーマが慌てた様子で机の端まで散っている紙片を掻き集めて抱く様に隠した。
「…お前、何の漢字を勉強しているんだ…」
呆れは溜息として手塚の唇から零れる。
そんな手塚にリョーマは、えへ、と可愛らしく――世間的に見れば――笑って見せた。
「…どういう理由でこれを懸命に書いていたのか、一応、聞かせてもらおうか。越前?」
そう言って手塚はリョーマが抱える紙片の中から一枚引き抜く。
椅子に腰を落としているせいで、いつもより手塚との身長差が大きい。
上から攻められればいつも以上に防御は効かなくて、リョーマの抵抗空しく、一枚の紙片は手塚に奪われた。
紙の端から端までは同じ単語が只管に書かれている。
手塚、の二文字が。
「あーあ、驚かせるつもりだったのに…バレちゃったら仕様がないか」
「まさかとは思うが何かに悪用するつもりか?」
眉間に皺を寄せ乍らリョーマの目の前で奪った紙片をちらつかせる。
視線の先でひらひらと揺れるそれをリョーマは奪い返して、腕の中の紙片諸共に机へ置いた。
「まさか。寧ろ何に悪用できるのかオレの方が聞きたいね」
「で。何がしたくて俺の名前をこんなに書いてたんだ?」
不意にリョーマが先程机上に置いた紙の束に視線を向ける。
一番上の紙には勿論、少しずれて覗くそれ以降の紙にもきっちりと書かれた自分の名前を見て何だか手塚は頭が痛くなってきた。
「何でだと思う?」
「知るか。見当もつかん」
腕を組んで、溜息を一つリョーマに浴びせる。
当のリョーマと云えば、盛大に呆れてみせる手塚を意に介さないように、口許をあまり質のよろしくない笑いで染めた。
「ほら、越前国光よりも手塚リョーマの方がゴロがいいでしょ?その時の為の練習」
「…待て。話が見えないんだが…」
順を追って話せといつも口を酸っぱくして言っているのに、コイツは何を聞いているんだか。
そう項垂れる手塚にリョーマは、ここまで言って何故わからないのか、と不思議そうな顔をした。
「本音ならアンタに嫁入りして欲しいんだけど、それだとアンタの名前がゴロ悪くなるでしょ?その点、オレが婿入りする分にはゴロいいじゃない。手塚リョーマで。
その時に綺麗に自分の名前書けた方がいいじゃん?その練習だってば」
今度は意味わかった?
と笑顔で尋ねて来るリョーマに遂に手塚は顳かみを押さえた。
「オレが婿入りしたらもう、越前、なんて呼べないよね?予行練習で今から呼んでみてよ」
「………?」
「リョーマって。あ、ダーリンでもオレは一向に構わないけど」
「…帰ろうかな」
助走。
結婚後に向けての助走。
新姓の練習。
ああ、リョマさんは無邪気で可愛いなあ(遠い目
手塚さんもそれぐらいの柔軟さでお相手してやってください。
蛇足:大石が頼まれたのは『手塚』の文字のお手本を書いてくれ、というものです。
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