100m
自分の迂闊さを、浴後に冷蔵庫を開けてふと気付いた。
学校帰りに買ってくる予定をしていた愛用の炭酸飲料を買いそびれていた。予約席さながらに、冷蔵庫壁面のドリンクストッカーには350ml缶一本分のスペースが空虚に残っている。
困ったな、と声に出し、冷蔵庫の扉を開いたまま立ち尽くして、洗い立てでまだ瑞々しく光る髪をがしがしとリョーマは掻いた。
中年男性によく見られる傾向を真似た、というわけでは無いのだけれど、風呂上がりに駆け付け一杯、というのは気持ちがいいのだ。
部活で汗をかき、そしてその汗を浴場で洗い流した後はどうしたって喉が渇いてしまっている。体が水分を欲しているのだ。そこに発泡性の清涼飲料水はリョーマには丁度良い。
炭酸のあの感覚が喉を焼いているようで、と嫌う人間もいるけれど、リョーマにはそちらの方がよく理解できない。”あれ”がいいのに。何を不粋な、と思う。
だから、ほぼ日課になっていたその炭酸飲料を今日に限って買い忘れてきてしまったことを、仕様がない、と素直に諦めはできなくて。
厚い機械扉から手を離せば、自然な動きで扉は元の場所へと戻り、パタンと静かに音がしたのとほぼ同時にリョーマはくるりと身を翻せば、まるで準備されていたみたいにリビングの机の上に100円玉が2枚転がっていた。
誰かの置き忘れであろうそれを手早くハーフパンツのポケットに捩じ込み、その足で颯々とリョーマは玄関へと向かう。
そして、そこへ行き着き、端に揃えて置いておいた自分のスニーカーを履くべく、爪先を差し入れようとして、ふとリョーマは思い留まった。片足だけ宙にぎりぎり浮いた妙な格好のまま。視線はスニーカーの横へと流れる。
折角、風呂に入ってさっぱりしたのに、日々の練習で汗やら泥やらを吸い込んだスニーカーを履いてしまうのは勿体無い上に、なんだかちょっと気持ち悪い。風呂から上がりたての足だったものだから、靴下も何も履いていない素足の状態だったものだから。
それならば、と視線を流したそこは妙齢女性である従姉のミュール。
爪先側から足首の辺りまで、緩くアルファベットのZの形で細いストラップが巡らされているそれの輪の中へと宙に浮かせていたままの足を滑り込ませた。
全体がストロベリーアイスみたいな淡いピンク色をしていて、足を差し入れたリョーマの足の甲を支える細いストラップにはオレンジがかった小さく、そして透き通ったラインストーンが隙間なく張り付いている。
そのウェッジソールの通気には頗る優れたその靴を履いた足を凝っと見下ろし、そして少し上げてみればきらりと全てが揃って光ってみせ、リョーマはなんだか楽しくなった。
女物の靴だとか、他人の物だとか、そういうことは一切どうでも良くて、そのまま、リョーマは勝手に菜々子のウェッジソールミュールを履いて外へと出て行った。
一応、夜と考えられる時間だったから、家の中の人間へと「行ってきます」と声はかけてから。
高いヒールは慣れなくて、歩きにくいことこの上無いけれど、いつものスニーカーでは鳴らない様な靴音がアスファルトの上で鳴ることが楽しい。
リズム良く、コッコッと鳴らして悠然と歩けば、いい女にでもなった気分で。
女物の靴は小奇麗なものが多くて、リョーマはどちらかと言えば好きだ。男の靴はこういったきらびやかな飾り気がまるでなくて、つまらないなと思う時さえある。
母や従姉と外に出掛ければ、頭の先から爪先まできらきら光るものをいっぱい付けられてちょっと羨ましい気持ちも覚えたりする。
多彩な色というのは、女という生き物に良く似合ってしまうものだから。
しかも、さっと履けてさっと脱げて、風の通り具合も盛夏が近いこの季節と風呂上がりでまだ汗が滲むこの身とには心地が良くて。こっちの靴を選んで、正解だったな、とリョーマは俄に浮き足立つ。しかも歩く度に周囲の光を浴びてはちかちかと爪先が瞬くのだから、それには一歩進める毎に拍車がかかるというもの。
鼻歌交じりに200m先のコンビニへとリョーマは向かい、丁度半分の100mの角を曲がったところで向こう側からやって来ていた、タイミングの大変宜しい手塚と鉢合わせた。まるで、何か台本があるみたいに都合良く。
こちらが向こうに気付いて、あちらもこちらに気付く。ぱっと目が合ってから、部長、とリョーマは手塚を呼んだ。
都合良く現れた彼は、更に具合良く、リョーマが買いに行こうとしていた炭酸飲料の2リットルボトルを脇に垂れ下げたビニール袋の中に携えていて。
鴨が葱を背負ってきた。
笑みを浮かべて近付けば、小難しい顔をして、こちらの足下を睨むものだから、手塚の目の前に辿り着いてからリョーマはきらきらと光る片足を見せびらかす様にちょっと上げてやった。
「かわいいでしょ?」
「……危なっかしいな」
靴底から舗道に生えたその細くて長いヒールが。
何やらこちらの姿が気に入らないらしい手塚の足を、緩く尖った爪先で軽く蹴るリョーマの顔もまたそんな手塚が気に入らない様子で。
「かわいいよね、って聞いてるんですけど?」
「お前の態度以外はな」
「じゃあ、態度以外のオレは『かわいい』の中に入るんだ?」
顔とか。
にんまりと不敵に笑みを浮かべて、そう手塚の揚げ足を取れば、取られた手塚の方はそれが気に食わないのか、眉を顰め、そしてそのままリョーマの隣をするりと過ぎて前へと進んだ。
くつくつと笑いを精一杯噛殺し乍らもリョーマのその後に従った。
早足にコツコツと高い音がする。
隣に並べば並んだで、まだ揚げ足を取られたことを釈然としないのか、横目で一瞥だけされた。またリョーマは忍び笑いを漏らしてしまいつつ、手塚が提げている袋の中から巨大なペットボトルをごそりと取り出して頭上に掲げた。
「以心伝心、ってやつ?」
笑みを収め込まずにそう言えば、ただの手土産だと素っ気ない声で掲げたペットボトルとほとんど同じ高さから返事がやって来る。
手塚からすれば確かにただの手土産だったのだろうけれど、本当にタイミングがズバリとでも言うかのような丁度良さで。リョーマはただくすくすと笑った。
ちらりと、空になったビニール袋をまだ提げたままの手塚がリョーマをまた見下ろす。それに気付いてリョーマも見上げ返せば、唐突にペットボトルを持ち上げたままの腕を一本掴まれた。
「こけたりしないよ?」
どうして掴まれたのかはリョーマはすぐにピンと来て、バランス感覚いいから、と付け加えて言っても、手塚は腕を離してはくれなくて。どうだろうな、とまた正面を向いて小さく言った。
「大丈夫だよ」
「万が一、があったら困る」
ハーフパンツからは素足の膝が覗いているものだから、手塚としては気が気では無い。
まさか、転んで足を擦りむいて、泣きじゃくるような子供では無いだろうけれど。
リョーマが履いているような、踵も剥き出しで、脱げないように支えているのは甲部分の2、3本の細い紐――にしか手塚には見えない――だけしかなく、細長いヒールの靴など、手塚は履いたことが無いものだから、その不安定さにどうしたって冷や冷やしてしまう。
確かにリョーマはバランスも良いし、ふらつく様子も見せないけれど、ただ頼りない靴を履いたその姿で隣を歩かれるというのが落ち着かない。
コツコツと鳴る高い足音も、なんだか別の人間が歩いているみたいで。
結局、腕をどうやっても離してくれそうにない手塚をリョーマはそのままにして、2リットルのボトルを片手で抱え、手塚と並んで我が家への帰路を辿った。
100m。
ラインストーンなミュールを履いてたかたか歩く越前は可愛いよね、っていう、それだけのおはなしでした。
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