ロイヤルミルクティー
「それじゃ、越前君、ゆっくりしていってね」
リョーマの目の前には発泡した紫色の飲料が注がれたグラスが置かれた。
少し離れた学習机にはこの部屋の主、手塚国光の姿。
ドアから去っていく母親を振り返って手塚は軽く会釈した。
相変わらず、この家は何か違うなあ、とリョーマは出された飲み物をストローで啜り上げながらぼんやりと思った。
息子が母親その他の家族に対して頑に敬語。
それを両親達は咎めるでもなく、遠慮するでもなく、至って普通に受け止めている。
自分の父親に敬語なんて一生使うことはないだろう、とリョーマはあのいつもどこか揶揄う様な表情の父親の顔を思い出した。
「越前」
ぼんやりとジュースを啜っていたリョーマは声に手塚を見た。
手塚の机の端にはベージュの色をしたミルクティーがリョーマに出されたグラスと同じものに入れられて乗っていた。
「なに?」
「お前は試験勉強はいいのか?」
明日もテストだろう。
そんな手塚にリョーマはにやりと笑ってみせて、持参した鞄の中から数冊の冊子を取り出した。
「ちゃんと持ってきてますヨー」
「…珍しいな」
「いつも試験期間になったら俺と絡みに来るのに、って?」
どこか下卑た薄笑いを浮かべながらリョーマはテキストを手にベッドへと体を横たえた。
そんなリョーマに手塚はというと、目許を淡く色付かせながらも咎める様な視線を投げた。
リョーマは今度はくすりと笑った。
「だって本当のことじゃん。ね、それ飲まないの?」
ミルクティーをリョーマは指し示した。
手塚の視線も一度そちらへ向かう。
「折角彩菜さんが淹れてくれたのに」
「焦って飲まなくても構わないだろう。お前が口をつけるのが早いだけだ」
そうして手塚も漸くグラスを取った。
「母さんの淹れるミルクティーはミルクがやけに多いからな。お前が飲んだ方がいいんじゃないのか?」
「身長の為にも、って言いたいワ、ケ?」
形勢逆転とばかりに今度は手塚がからかってみせる口調で言うと、リョーマは唇を尖らせた。
「放っておいても伸びるからいいの。ただでも言い付けで牛乳飲まされてるのにこれ以上牛乳なんて飲みたくない」
不貞腐れた様にリョーマは手にした冊子のいくつかをベッドの上で開いた。
試験勉強用に持ってきたテキストの類はきちんとその用途通りに使われるらしい。
「アレでしょ、この国はやけにミルクいれてる紅茶はロイヤルミルクティーって言うでしょ?」
「そうなのか?ロイヤルの定義が俺はよくわからんが」
「この国の人達って何かというと頭になんか付けたがるよね。スーパーとかさミラクルとかマーベラスとかサブライズとかエクセレントとかさ。この国って英語の意味ちっとも判ってないんじゃないかと思うよ」
言いつつリョーマが開いているのは国語の教科書だ。
「そもそも、ロイヤルっていうのはさあ、王室のーとかそういう意味なのにさ。この国ってロイヤルの意味知らないんじゃない?皇室はあるけど王室はないし」
「chopsticksはどういう意味だったかな」
「箸。なに、アンタ明日英語?」
「ああ。oathは?」
「宣誓」
箸に宣誓、って試験範囲はどういう範囲なんだろうかと一縷の疑問を抱きつつもリョーマは自分のテキストに視線を落とす。
「なんでも頭につければいいってもんじゃないのをわかってないだよね、この国は」
「そうか」
「…やけに食い付きが悪くない?『この国』論議はつまんない?」
大抵どんな話題でも何かしらのコメントをするのに。
試験勉強が忙しいというのなら相槌すら返してこないだろうに。
中途半端だ。
リョーマはそう感じた。
話題がつまらないならこの人はきっぱりとその旨を伝えてくる筈なのだが。
何かの違和感が手塚にはあった。
「…なんかオレいらない事言った?」
「いや…別に…?」
やはり様子がおかしい。
こちらをちらりとも見ない。こちらに振り向く様な気配もない。
リョーマは物音を立てないようにこっそりとベッドを下りた。
そのまま、足音に留意しながら手塚の背後へと近付いた。
やはり手塚は気が付かない。おかしい。手を伸ばさずとも触れる距離までリョーマが近付いているのに。
はて、とリョーマはそんな手塚の様子に首を傾げてみるが、こんな千載一遇のチャンスを逃す手はない。
口の端だけで質悪く笑って、リョーマは手塚の背中に飛びついた。
手塚にとっては本当に意表をつかれたのだろう。短い驚きの声が上がった。
「オレが来てるっていうのに、なに考えてるの?」
いつもよりも若干低い声。それで手塚の耳元へと言葉を紡ぐ。
手塚が小さく身震いを起こすのが服越しでもリョーマに伝わった。
「ね、オレの話も聞き流して何考えてたの…?」
「聞き流してた訳では…」
「どっちでもいいよ」
そろりと耳朶に舌を這わす。手塚はぴくりと敏感に反応を示した。
「…お前が…」
ゆっくりと手塚が振り返る。
目許の色付きは先刻よりも濃い。
「オレが?何?」
「…お前が、この国、この国って連発するから…」
「コノクニ?それが…どうし…」
この国。
その単語を頭の中で反芻して、リョーマはある事に気がついた。
「そういや、アンタの名前って国光、だっけ…?」
手塚のこれまでの様子の原因を確信したリョーマは質の悪い笑みを深くする。
それに気が付いた手塚の顔色は更に紅潮に染まる。
世間一般に、親しい者を呼ぶ時に名前の最初の部分を取って「ちゃん」や「くん」などの接尾語を用いる事が多い。
例に彼を挙げるのはどうかと思うが、不二周助ならば「周ちゃん」という様な感じだ。
手塚と言えども、幼い頃はそういう時期があったのではないかと思う。
そんなに親しい友人がいなかったとしても、両親ならば赤子の時には「国ちゃん」なんて呼んだのかもしれない。
手塚の反応を見る限り、確実にそういった時期はあったと思われる。
リョーマが発した「クニ」という言葉を気にしていた辺り。
「クニ…って呼ばれてた事があるわけ、だ。アンタにも」
「…」
「それをオレに呼ばれたのが照れる…ってこと、かな?」
「…」
沈黙が暗にそれが正解だと物語る。
「でもさ、たしかアンタのお父さんもおじいさんも頭に『クニ』が付かなかったっけ?」
「…なんで知ってるんだ」
「前に彩菜さんに聞いたの」
「母さんから…?」
リョーマと母親はどういう理屈からか知らないが、懇意にしている。
どういう話題の折にそんな話が出たのか。
がっくりと項垂れる手塚の背後ではリョーマが思案顔になっていた。
「そうなるとさー…もう『手塚国』まで名字みたいなもんだよね…じゃあ、アンタのあだ名をつけるとしたら……ミツ?」
聞き慣れない自分の呼称に手塚は勢い良くリョーマを振り返った。
そこには愉悦が顔中から溢れ出たリョーマの顔。
「いいんじゃない。ミツ…っていうのも」
「その名で呼ぶな…っ」
「なんで、かわいいじゃん。ミツ」
「呼ぶなと言っている」
怒りが籠っている様な音ではあるが、その目許に咲いた赤味が決してそうではないのだという事を語る。
「オレにそうやって呼ばれるの恥ずかしい?ミツ」
「…」
ああ言えばこう言う。ならば何も言わなければ解決するかというとそういう問題でもない。
特に越前リョーマという少年の場合。
「ミツー、ミツー、ミツー」
反応が無いならば反応が返ってくるまでやる。
その声音から楽しんで揶揄っているものだと思われた。
今にもきゃっきゃと無邪気に笑い出さんばかりだ。
それに対しての手塚からの反応は無い。
どこまでも沈黙を守るつもりか、とリョーマは手塚の顔を伸び上がって覗き込んだ。
その顔は、既に目許と言わず顔いっぱいまで紅潮が広がっていた。
リョーマの二の句は途切れた。
「ちょっと…名前だけでそんなに照れられると…オレまで、恥ずかしいんだけど…」
「お前が悪い」
そんな潤んだ瞳で睨み返されても、
「逆効果なんだけど…」
壮絶なまでに可愛い。
手塚の紅潮が伝染したのか、リョーマの顔もみるみるうちに赤くなった。
「その名で呼ぶな…」
「う、うん、わかった…まだまだ『部長』で呼ぶことにする…」
二人の傍でロイヤルミルクティーのグラスの中の氷がカランと鳴った。
ロイヤルミルクティー。
乾もよく改良した汁の頭に色々とつけますな。
店で出されるロイヤルミルクティーのどこがロイヤルだと思うわたしです。
ミツ呼ばわりを越前さんがするのはもう少し慣れてからかしら…えちっこファイオッ
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