窓辺
名を呼ばれて手塚は振り返った。
「手塚」
菊丸は振り返った手塚をもう一度呼んで、そのすぐ傍まで駆け寄った。
「なんだ?菊丸は越前とミニゲームとさっき…」
伝えただろう、と続くべき言葉を菊丸が遮った。
「あんなオチビとやれっかよ!ね、ね、不二とミニゲームしていい?」
「決めたメニュー以外をやられると予定が狂う。第一、不二は桃城とミニゲームだ」
自分の提案が簡単に却下されたことに菊丸は不満の声をあげる。
手塚は頭を悩ませるようにひとつ溜息を吐いた。
「あんな越前、とは?」
「にゃ?」
「どういう意味だ?」
「もー、何があったか知らないけどさー、すっごいプリプリしてんの!ラケットさばきも荒れる荒れる!」
肩を怒らせ、リョーマの様子を語る菊丸に手塚は意外そうに片眉を上げた。
「ツイストも倍速で顔に向かってくるしさあ!回転具合も倍速!」
そこまで見極められてるなら攻略できるのではないだろうか、と思うが、手塚が口を挟む余裕を与えないぐらいに菊丸はその後も早口で延々と語った。
菊丸がたっぷりと『リョーマの試合の相手はしたくない理由』を語り終わった後、手塚は一拍置いてから口を開いた。
「…わかった。俺が越前と話をつける。その間菊丸は桃城と不二のミニゲームの審判。終わったらそのまま3人でローテンションでしばらくミニゲーム。いいな?」
「オッケー!さっすが手塚!よろしくねん」
そして菊丸は跳ねる様にして不二の元へと駆けて行った。
「さて…」
菊丸が去った後、手塚はコートをぐるりと見渡す。
何と言うことはない、いつも通りの部活風景。
ただ一点、フェンスに凭れ掛かりながら怒りのオーラを振りまく越前リョーマを除いて。
「越前」
ざわつく部活中のコートにも手塚の声は一際通る。凛としたテノール。
それは若干距離があるとは言え、リョーマにも届いたらしい。
すぐに顔を手塚へと向けた。
「話がある。こっちに来い」
いつも手塚が声をかければ嬉々として寄ってくるのに、今日はどうした事か、何とも複雑な顔をして重い足取りで手塚の元へと足を進めた。
どうやら菊丸の証言通りに今日は機嫌が悪いらしい。
「何スか、話って」
俯いて、足下を蹴って、まあなんとも不服そうな声で。
いよいよ本気で何かに腹を立てているらしい。
もしくは、
臍を曲げている。
「菊丸から苦情が入ったぞ。お前が荒れてて試合をしたくない、とな」
「アンタはオレの消費者センターってワケ?」
「こっちだってできれば苦情なんて受け付けたくないがな」
できれば何事もなく穏便な方が手塚にとっても望ましい。
部長、という役職と、手塚本人は公にした覚えはないがリョーマの恋人というポジションから、リョーマに関してのクレームは手塚に頻繁に寄せられる。
「何があったかは知らないが、テニスはお前のストレス発散の場ではない。部活なら尚更の事だ」
「部の規律を乱す者は許さん、って?」
そこで漸くリョーマが顔を上げた。
揶揄する様な笑顔と呼べない笑顔で。
「そうだ」
「頭ごなしにそれはダメ、これはダメ、って云うのはどうかと思うけどね。原因をちゃんと突き止めてからにして欲しいもんだね、説教するなら」
「ふむ、一理あるな」
リョーマだけに限らず、こうして『怒る』という事はそれに起因する何かがあったという事になる。
何もしなくても怒っている、という事はまず無いだろう。
『怒りやすい』という性格にしても、『怒り』に至るには何か契機が必ずあるのだ。
「では、」
ならば、リョーマの云う通り、『怒り』に達するまでの原因を突き止めるまでだ。
「聞こうか、お前がそんなに腹を立てている理由とやらを」
本人に怒りの原因を聞くのが直球ではあるが正攻法の一つでもあるだろう。
特に、手塚とリョーマという関係に置いてはそれが一番有効だ。
「…」
けれど、手塚に尋ねられてリョーマは途端に口を噤んだ。
そのリョーマの様子に手塚は小さく首を傾げた。
「どうした?」
「…」
「お前が聞けと言ったんだろう」
「…そうだけど」
「ならば、答えてもらおうか?」
不意にリョーマが手塚から視線を逸らす。
「越前?」
「…」
「…そんなに言いにくいことなのか?」
一体リョーマの身に何があったのだろうか。
手塚の中で謎は深まるばかりであった。
「…」
「…」
リョーマが口を開かないから手塚も口を開かない。
沈黙を守るリョーマの様子から軽々しく聞いてはいけないことなのか、と云う躊躇からも手塚の唇の施錠は固くなった。
手塚はリョーマを見下ろして、
見下ろされたリョーマは遂には俯き出して、
賑やかな部活の空気にはそぐわない重苦しい沈黙が二人を囲った。
「ね、英二、越前と手塚は何をしてるの?」
自分のゲームを終えて審判台に腰かけながら不二は菊丸に声をかけた。視線は手塚とリョーマの両者に向いている。
ミニゲームの番が回ってきた菊丸はコート脇で軽い柔軟をしながら不二を見上げた。
「手塚にオチビを説教してもらってんの」
「説教…っていう感じじゃないけどね。修羅場?みたいな?」
言葉とは裏腹に不二は何とも楽しそうに微笑んだ。
「えー、怒りマックスのオチビを解決してくれる、みたいな事言ってたんだけどなー」
「手塚が?というか、どうして越前は怒ってるのかな?」
「さあ、俺知らなーい」
そうして柔軟を終えた菊丸はコートに入ってラケットを構えた。
その菊丸の向こうでは桃城がいる。
「越前が怒りそうなことねえ…手塚絡みだとは思うんだけど…」
「あの、不二先輩」
不意に自分の足下から弱々しくかかった声に不二は視線を落とした。
そこにはボールがいくつも詰まったバスケットを抱えたカチローが怖ず怖ず、といった様子でこちらを見上げていた。
「どうしたの?」
不二がふんわりと微笑んでみせるとその表情に安堵したのか、カチローは幾許か肩の力を抜いた。
「リョーマ君、きっとあの事で怒ってるんだと思います」
「あのこと? …。…教えてくれるかな?」
人好きのする顔でそう問いかけてみれば、カチローはすぐに不二に『あの事』を話した。
その間、試合開始の声がかからず菊丸と桃城は勝手にゲームを進めていた。
「ふうん、なるほどね」
「あ、リョーマ君が怒ってるの、ひょっとしたら違うかもしれないんですけど…」
「ううん、多分合ってるよ。どうもありがとう。さて、と」
審判台の上で不二は腰を上げた。そして、静かにコートへと降り立った。
「不二先輩?今審判中じゃ…」
「あのままじゃ今日は手塚も越前も部活せずに向かい合ってるだけだろうからね。ちょっと解決してくるよ」
「え、でも、審判…」
「お任せしていいかな?今、15-30で英二が優勢だから」
戸惑いがちなカチローに対し、その後ろのコートで菊丸が目を丸くした。
「不二、見えてたのっ!?話してたから見てないと思った!…っあ!」
菊丸が桃城とボールから目を離したその瞬間、すぐ脇をボールが跳ねていった。
ネット越しの桃城は小さくガッツポーズを作っていた。
「はい、今ので30-30ね。それじゃよろしく。あ、それと、英二」
「にゃに?」
「見てないと思った、だなんて、失礼だな。僕を、誰だと思ってるの?」
うっすらと開かれた不二の眸に菊丸はびくりと身を震わせた。
「ご、ごめんなさい…」
「わかればいいよ。じゃ、ちょっと行ってくるね」
名を呼ばれて手塚は振り返った。
「手塚」
不二は振り返った手塚をもう一度呼んで、そのすぐ傍まで歩み寄った。
「いつまでそうしてるつもり?部活あと30分だよ?」
困り果てた顔で不二が両者の間に割って入った。
手塚もリョーマもなんとも苦い顔をした。
「越前、理由は聞いたよ」
「理由?」
訝しそうにリョーマは逸らせていた視線を不二に向けた。
そんなリョーマの視線ににっこりと不二は笑ってみせる。
「今日、席替えがあったんだって?越前」
「席替え?」
不二の言葉を反復するのは手塚だ。
リョーマは驚いたようにピクリと小さく体を反応させて、また顎を引いた。
「そう。今日、越前のクラスは席替えがあった。そして、君は『一度は』窓辺の席に決まったそうだね」
こちらを見ようとしないリョーマの顔を覗き込むようにして不二は続けた。
リョーマに事実を確認するように、一言一言やけに滑舌宜しく。
「一度は?」
しかし、不二が言葉の先を続ける前に、敢えて不二が強調したその部分を不思議に思ったらしい手塚が発言した。
「そう、一度は」
手塚の発言を、そして自分が言った言葉との符号性を肯定するべく不二は手塚に向けて一つ首を縦に振った。
「けれど」
そして、不二はまたリョーマの方を振り返る。
リョーマはと言えば何とも苦々しい表情でただ自分の足下だけを見詰めていた。
「教師にこう言われたそうだね。「窓辺に越前が座るのはダメだ」と。そして、君は窓辺から離れたほぼ教室の真ん中の席に強制的に移動させられた」
どこかの刑事ドラマか探偵ものでも見ているようだな、と手塚はぼんやりと感じた。
さしずめ、不二が刑事か探偵で、リョーマが犯人、と云ったところだろうか。
正に場面は謎解きのシーン。犯人に自分の推理、そして事件の真相を告げているシーンそのものだ。
「どう、越前、どこか違うかな?」
「…」
「ちょっと待て、不二。それだけで越前は機嫌が悪い、と?」
推理モノならば、必ずいる探偵役の推理に疑問を投げかける登場人物。
今、手塚は正にその役回りであった。
それもこれも、不二の推理に対してリョーマが頑なに沈黙を守ろうとするせいだ。
「そうだよ、手塚」
「そんなことで…」
手塚が呆れたように小さく嘆息を吐いた瞬間、それまで俯いていたリョーマが勢い良く面を上げた。
「そんなことじゃないっ」
「…何か、窓辺の席でないといけない理由が?」
手塚からの追い打ちに、きりりと吊上げていたリョーマの眸が自らの発言が失敗だった、とばかりに大きく開いた。
「それは…」
リョーマが口籠るところを見ると、どうもそこの辺りが重要らしい。
手塚にはてんでリョーマが言葉を濁す理由が解らない。
言うべきか言わずでいるべきか、迷ってリョーマの視線はきょろきょろと動いた。
上を向けばこちらの答えを待つ手塚が居る。
横を向けば何が楽しいのか、にこにこと微笑む不二が居る。
その不二が、口を開いた。
「体育の授業してる手塚が見えないからだよね」
「!」
「え?」
不二の発言にリョーマはカッと紅潮し、手塚はぽかんと口を開いた。
「それから、移動中の手塚が見えない。授業中に3年1組の教室の窓を見ることもできない。だから、君は腹を立てた。窓辺はダメだと断固として言う教師に」
そこから続く不二の言葉はこうだ。
リョーマは今まで窓辺の席だった。
そして、授業中、主に英語の授業と月曜の3限目、水曜の1限目、木曜の5限目は窓の外を頻繁に見ていた。
授業中に窓の外を見ているということは、授業は聞いていないに等しい。
リョーマが窓の外を見ている姿は勿論、各授業担当の教師に目撃されている。その度にリョーマは注意されているが一向に治す兆しはなかった。
教師として、窓の外ばかり見て授業を聞かない生徒が今後も窓辺の席にいられるというのは大いに困る。
「きっと、各教科担当の先生達が越前の担任に言ったんだろうね。『次の席替えの時は越前は窓辺の席にはしないでくれ』って」
「…」
「不二、ちょっといいか?」
「なに?手塚」
「主に聞いていなかった授業の、英語以外の授業は何の授業なんだ?やけに時間帯が指定されているが」
手塚からの問いに、不二は、ああ、それはね、と前置きして口を開いた。
尚も俯いたままのリョーマを一瞥してから。
「その時間の越前の授業が何か、というのが論点なんじゃないよ」
「つまり?」
「英語の時間以外に越前が窓の外を見ていた時間、それは…」
不二はそこで意図的に言葉を切った。
一度、瞑目して、リョーマを見てから手塚へと向き直った。
「手塚、君のクラス、つまり3年1組が体育の授業の時間だよ」
「は?俺のクラス?体育の授業?」
「そう。越前は君がグラウンドで体育の授業を受けているのを見てたんだね。そして、その授業中の楽しみが奪われてるからこそ、部活の時間まで引きずるぐらいに怒っていた、という訳だよ。
越前、反論は?」
「…」
「…おい、越前、本当なのか…?本当に…」
本当にお前はそれだけの為に怒っているのか、と手塚は事のバカらしさに脱力した。
先刻まで中々切り出せないで居たリョーマを気遣って先を無理に促さなかったというのに。
「…オレには重要なことなの」
事の真相を全て不二により暴露され、漸くリョーマがその重い口を開いた。
「だって、好きな人の姿は見たいじゃん。少しでもさ…」
「部活で会うだろう?」
「そうだけど…」
「第一、授業を聞かずに外ばかり見ているというのは問題だ」
腕組みをして、手塚は完全に説教の体勢でそう言う。それを受けるリョーマは何とも不服そうに唇を窄めた。
「あれ、手塚。それは手塚は言えないよね?」
「え?」
「!」
明るい声でそう発言した不二に、不思議そうな顔でリョーマが不二を振仰ぎ、手塚の表情は固まった。
「不二…まさか…お前、知って…」
「そう、たしか先週まで手塚は窓辺の席だったよね。そして、君は決まってある時間帯に限り、授業の大半、窓の外を見ていた」
「ちょ、ちょっと待て、不二、お前どこからその情報を…っ」
咄嗟に不二の腕を掴もうとしていた手塚の腕を、リョーマが取った。
そこには、先ほどまで臍を曲げていた少年の顔はない。
リョーマはにやりと口角を上げた。
「不二先輩、続けて」
リョーマの言葉に不二はこっくりと一つ頷いた。
「手塚、君が外を見ていた授業、それは…」
不二は先刻と同じ様にそこで言葉を切った。
勿論、今回も意図的な事は明白だ。
「越前のクラスが体育の時間だね?」
「へえ」
「それを裏付ける様に、今回の席替えで君の席が窓辺にならないと確定した時、君が残念そうに嘆息を吐いた、との目撃情報もある」
手塚。
不二は静かに手塚の名を呼んで、人さし指を突き付けた。
「君に、越前に説教を垂れる資格は無いと思うけどね!!」
ビシイッ
この時の不二のリアクションに音を付けるとするとこんな感じだろうか。
手塚は狼狽えた。
「へーえ、部長もオレのこと見ててくれたんだ。やけに体育の授業に視線を感じるな、とは思ってたけど…まさか部長だったなんてね」
「や、それは…その」
尚も狼狽える手塚に、リョーマはにっこりと笑ってみせた。
「安心して、窓辺じゃなくても授業中はアンタの事しか考えてないから」
窓辺。
…長い。エロでも無いのに無駄に長いです…。
要はお前らお互い大好きだよな、というオチです。
ありがとうございましたv
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