わがまま
















一日の終わりを浴槽にすべて溶け込ませて、リョーマはご満悦で浴室を出た。
濡れそぼった髪をタオルで拭きつつ、湯上がりにファンタでも一本、とリビングの扉を潜った。

扉を開けると、リビングに備えられたテーブルセットには母がぼんやりと座っていた。

「母さん?」

そんな母を訝しく思って、リョーマはファンタを冷蔵庫から取り出しながら声をかけた。
リョーマがリビングに入ってきたことも気が付いていなかったのだろう。倫子は少し驚いた様にリョーマを振り返った。

「あら、リョーマ。お風呂あがってたの?」
「うん。今さっき。母さんも入ってきたら?」
「…ねえ、リョーマ、ちょっと話があるんだけど」

缶のプルタブを開けた姿勢でリョーマは動きを止めた。
母に怒られる様なことを仕出かした覚えはない。
はて、話とは。
不思議に思いつつも、リョーマは倫子の向かいの席に腰を下ろした。

「なに?話って?」
「…あのね…」

倫子は言い辛そうに語尾を濁した。
いつも活発な母の姿ばかりしか見ていないリョーマにとってはそんな姿は新鮮でもあったが、何か深刻な話なのだろうかと小さな胸騒ぎがした。

「まさか、遂にあの親父に愛想尽かした、とか…?」
「え?」
「…離婚…なら、オレ、母さんに付いてくよ?」

折角、栓を開けたファンタにも口を付けず、その上、缶を握っていた手も解いてリョーマは真摯に正面に座る母親を見据えた。
けれど。
リョーマが一人深刻になっているというのに、倫子は場違いにも可笑しそうにくすりと笑った。

「リョーマ、違うのよ。そういう話じゃなくてね」
「え?」
「リョーマに彼女ができたんじゃないの?っていう話よ。あの人は関係ないわ」
「あ、そうなの…」

自分の想像が早とちりだったことに安堵を覚え、リョーマは肩の力を抜いた。
ようやくファンタにも口をつけた。

「息子に彼女ができたのかどうなのかを本人に詮索するなんてお節介だとは思うんだけどね。最近、様子が変だから」
「変?オレが?」

ええ。
倫子は頷いた。
それから頬杖をついて、ここ最近のことを思い出しているのだろうか、天井を見上げた。

「前に比べて、部活の帰りは遅いし、出かける日は多くなったし。何だか楽しそうな顔をしてる時も増えたし」
「……」
「でも、相手の子を家に連れてはこないでしょ?貴方が連れてくるのはいつも、あの、眼鏡かけた…」
「手塚部長?」
「そうそう、手塚くん。あの子だけだし。結局彼女が居るんだか居ないんだかよくわからないのよね」

そこまで推理できているなら、導き出される答えは簡単だろうとリョーマは思うのだが、この母親からしてみればその諸事を全て繋ぎ合わせるということはしないようだ。
どう答えたものかとリョーマは思案しつつ、それを気取られない様にまた手の中の缶に口を付けた。

「リョーマはまだ中学生でちょっと彼女は早いかな、と思わなくもないのよ。でも時代が時代なんだろうし、居てもいいと思う気持ちも本当なの。リョーマが選んだ子ならきっと素敵な子だと思うし」

素敵な子過ぎて手放せない、だなんて本音は現状では言えない。
『彼女』が居る、という事実を肯定することになってしまうだろうから。

『恋人がいる』という事実は別に母親に隠したいワケではない。
けれど、母は『彼女』だと断定している事が真実を伝えることを憚らせた。

目の前の母親は、自分の恋の相手が普段家に遊びに来ている『彼』だと知ったら一体どういう顔をするのだろうか。

(…まあ、驚く、よね、とりあえず)

自分だってこの気持ちに目覚めた時は驚いたのだ。きっと、誰よりも自分が。

「だからね、私たちに遠慮せずに連れて来ていいのよ?」
「『彼女』を?」

そうよ、と母親は頷く。
リョーマの発言が『彼女が居る』ということを半ば肯定しているようなものだったからだろうか、その顔はどこか微笑んでいる。

リョーマは困った様にまだ湿り気のある髪を掻いた。

「『彼女』…はいないよ」
「あら?そうなの?」

文字通り、倫子はがっくりと肩を落とした。
そんなにリョーマに彼女が居て欲しいのだろうか。母親の心というのは何とも複雑らしい。

「『彼女』は、ね」
「?  どういうこと?」

そう、『彼女』はいない。
確かに、手塚をかわいいと思ったり、綺麗だと思う瞬間は多いけれど、決して手塚を『女』として見ているわけではないのだから。
飽く迄、リョーマは手塚を『男』として見ている。
正直、格好いい、と思う瞬間もある。

相手を確りと『男』として惚れている。
手塚も、それを当然だと思っているし、『女』としてなんて惚れられたくないだろう。

母が『彼氏はいるのか』と尋ねてきたらリョーマも首を縦に振るしかない。
けれど、今母親は『彼女』が居るなら家に連れてきて欲しいと言っているのだ。
『彼氏』だ『彼女』だとなにを小さいことを、と嘲笑われてもリョーマは肯く訳にはいかないのだ。

「好きな人が居る、っていうのは当たってるけど、『彼女』じゃないよ」
「?  片思いってこと?」
「それとも、また違うかな」

リョーマのハッキリとしない態度に業を煮やしたのか、倫子は明らかにむすっとした顔をした。

「もうっ私はなぞなぞをしてるんじゃないのよ?」
「オレだってしてないよ。…ね、母さん、オレが好きになった人なら母さんは誰でも歓迎してくれる?」

リョーマの言いたいことが判らないのだろう、倫子はきょとん、と小さく目を丸めた。

「どういうこと?」
「さあ、どういうことだろうね」

これではまるで禅問答だ。
困った様にか、呆れた様にか、倫子はふうとやや重く息を吐き出した。

「リョーマ、…母親は自分の子供の幸せが大切よ。貴方の幸せの為にならない人ならひょっとすると反対するかもしれないわ」
「どんなに素敵な人でも?」
「Love is blind、って言うでしょ?当事者達は気が付いていないことが周囲の人間には明白なこともあるわ」

恋は盲目、たしかに自分はあの人を盲目的なまでに好きなのだと思う。
あの人の為ならば本当に何でも投げ出せるし、何でもできる。
不可能も、彼が望めば可能に変えてやれると思う。

けれど、きっとあの人は何も望まない。
リョーマが自分のせいで不幸になりそうならきっと自分から身を退く。
そしてそれをリョーマが止められる手立ては今のところ皆無だ。

「じゃあ、いつか…いつか母さんの前にその人を連れてきた時は判断してよ。オレがその人と一緒にいて、その人が幸せになれるかどうか」
「リョーマ?」
「その人と一緒に居て、オレが幸せになれるかどうかじゃない。その人がオレと一緒に居て幸せになれるかどうかをさ」

また缶に口を付けようとして、手の中に握られているものは空き缶に成り果てていたことにリョーマは気が付いた。

「あの人が幸せじゃないとオレは幸せになんてなれないと思うから」

手元から視線を上げた自分の息子の顔が一回り成長していることを母親は悟った。
思わず、苦笑が口を吐いた。

「そこまで、貴方を成長させてくれた人、なのかしら、その人は」
「まあね」

リョーマはにっこりと笑った。




















わがまま。
ワガママ。わがまま。
…我がママ。(寒
越前家に手塚が嫁として足を踏み入れる日はいつか。
…えち婿養子説を推奨する身ではありますが。
カミングアウトって勇気いるんだろうなあ…。
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