特効薬
我が親友ながら、恐れ多いと思う。
涼しい顔をしながら部活のメニューをノートに書き記す手塚の横顔をぼんやりと眺めながら大石は思った。
何が原因だったかは知らないが今日、我が部のルーキーは妙に沈んでいた。
いつも傲慢な程に強気な彼のその様に、部員の面々は何と声をかけたら良いのかを躊躇った。
今にも泣き出しそうな曇天の様な顔を、彼はその時していた。
いつもはすべてお見通し、とばかりの不二も、
データですべてを把握している筈の乾も、
普段懇意にしている菊丸や桃城さえも、
誰もかける声を持たなかった。勿論、大石自身も。
そこへ、手塚がやって来た。
委員会が長引いてしまったとその後に聞いた。
手塚はコートにやってくるなり、リョーマの異変に気付き声もかけずに近付いていった。
足音で誰かが近付いてきたのは気付いていたのだろうが、まさか手塚だったとは思わなかったらしく顔を上げたリョーマは大いに驚いた顔をしていた。
その後、手塚とリョーマは一言二言会話を交わしていた。
会話の内容は距離があったせいで大石の耳には届いていない。
そして、その会話の後、リョーマから憂いは消えた。カラリと笑ってみせた。
「あの時…」
気付けば大石は口を開いていた。
手塚も大石が言いかけた言葉にこちらを向いている。
「何を話したんだ?越前と」
「何を?…ああ、今日のことか?」
こくりと大石は頷いた。
あれ程周りを寄せつけなかったリョーマに何を言って機嫌を直したのか、純粋に興味があった。
「…秘密だ」
暫く考えた末にそう答えた手塚の顔に大石は妙な違和感を覚えた。
どこか、悪戯っぽく笑っているような感じがする。
これまで笑った顔なんて見たこともないのだけれど、『笑っている』と感じた。それが違和感の正体だった。
そしてまた手塚はペンを走らせる手を再開した。
先程の表情はもうその顔にはない。
見間違えだったのだろうか、と大石が思う程にいつもの手塚の淡々とした顔だった。
「越前にとって手塚はよく効く薬みたいなもんなのかな…」
「俺が、か?」
ノートとプリントを交互に照らし合わせつつ、手塚は視線をこちらに向けることもなく反問した。
「そう。どんな越前の不機嫌も落ち込みも治せる魔法の薬だね」
現に今日がそうだった。
いや、今日だけではない、リョーマはまだ幼い故か稀に癇癪というか本人には原因があるのだろうが、周りから見れば意味もなく不機嫌になることがあった。
そういう時、リョーマの機嫌を治すのは決まって手塚だ。
敏腕の医師の様に手塚はリョーマを治してみせる。
治す、ということにおいては医師は症状の診断をするだけで、その実治しているのは医師が患者に出す薬のおかげだ。後は人間に備わった自然治癒力と。
ならば、手塚は『リョーマの主治医』ではなく『リョーマの薬』という方が的確に大石には思えた。
それも特等に効く薬。
「手塚の変わりは誰にも務まらないだろうね」
部活に於いても、リョーマにとっても。
そんな事は今更口にするまでもなく知っていたことだけれど。
「…でも、手塚がいなくなったら、越前はどうするんだろうね」
「俺がいなくなる?生憎転校の予定はないぞ」
「あくまで、仮定の話だよ」
薬はひょいひょいと変えるものではない。
本人の体質との相性などの問題もあるし、患者本人がその薬以外の服用は考えていないのだろうから、変えようと思っても変えられはしない。
けれど、ある日その薬が地球上から消えたら。
どれだけ泣き縋っても、大金を積み上げても手に入れられなくなったら。
その患者はどうするのだろうか。
「…静かに死を待つのみ、か?」
大石はぽつりと漏らした。
手塚は突然そんな事を呟いた大石に首を傾げてみせる。
完全にペンを走らせていた手は止まっていた。
「大石?」
「手塚は、どう思う?いつか自分がある日突然いなくなったら越前はどうするか、どうなるか」
どうするか?どうなるか?
大石の問いを反復して、手塚は考える様に顎に手を当てた。
患者が自分を求める瞬間を何度となく見て来ている薬自身はどう答えるのか。
大石は手塚を凝っと見ながら答えを待った。
「…」
「…」
「泣く」
「え?」
手塚は顎にやっていた手を解放して、先刻大石が違和感を感じたあの顔で大石を見据えた。
「泣くな、アイツは」
「そ、それだけ?」
「ああ、泣く。きっとそれだけだ」
薬自身の答えは大石には驚くべきものだった。
大切な人がいなくなったら、まあ、普通悲しみに暮れて噎び泣くだろう。
けれど、大石から見て越前リョーマという少年は『普通』の枠には到底収まらない人物の一人だ。
そんな彼が、泣くだけだろう、と目の前の『普通』の枠には収まらないもう一人の人物は言った。
「泣かせたくはないからな。俺はいなくならない」
「え?」
そして唐突にその言葉の続きを告げた。
「アイツの泣き方は見ているこっちが辛くなるからな。泣かせるわけにはいかないな」
「そ、そうなんだ」
手塚の発言は『リョーマが泣いているのを見たことがある』事を前提に話されている。
いつあの気丈なリョーマが泣くところを見たのだろうかという疑問が大石の頭には渦巻いた。
その時、大石と手塚のいる部屋の扉がけたたましく開いた。
「終わった!?」
越前リョーマ。
駆けて来たのだろう、若干肩で息をしていた。
完全に息を切らさないのは手塚が今書いているようなメニューを日々こなしているからだろう。
不意に手塚が席から腰をあげた。
そのまま自分の鞄とテニスバッグを肩にかけた。
「今、丁度終わったところだ。やけに勘がいいな」
「アンタの事なら何万光年離れてても手に取る様にわかるよ」
急いで来たせいでか肩からずれ下がったテニスバッグを直しつつ、リョーマはにやりと笑ってみせた。
「大石、竜崎先生にそれを渡しておいて貰っても構わないか?」
「あ、ああ、俺がやっておくよ」
「すまないな。助かる」
「じゃ、大石先輩、また明日」
「ああ、越前気をつけて変えるんだぞ」
「部長と一緒に帰るから平気ッスよ。それじゃ」
ガラガラとドアはレールの上を滑ってぴたりと閉じた。
大石はふう、と嘆息を吐いた。
少し、愉しそうに。
「越前専用の特効薬、というワケだね。しかも自覚あり、か。こりゃタイヘン」
特効薬。
対越前さんな手塚っちょ。(ちょ!?)
王子は三度の飯より部長が好きなのは世界の常識です。(規模でかいですね)
そして手塚の匙加減一つで機嫌が直ったり。
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