サイン帳
















(もっと、こう、シンプルなの…置いてないわけ?ここ)
「越前?」

不意に後ろから声をかけられた。
ざわざわと賑わう大型ショッピングモールの片隅で。

声に振り返ると書店の袋を小脇に抱えた手塚が立っていた。

「部長」
「俺はもう部長じゃない」
「…手塚先輩」

この言い方は正直まだ抵抗がある。
ほぼ1年の間、一度だとてそう呼んだことがないからかもしれない。

「まだ部長としての自覚が足りないんじゃないのか?明日でもう俺達3年も卒業だと云うのに」

そう。来るべき日まであと1日。今日が終われば3年生達の巣立ちの日。卒業式。
その日を遡ること数カ月、手塚達3年生の引退の日にリョーマは次期部長の名を言い渡された。

桃城達2年生が驚いたのは元より、リョーマ本人も手塚のその決断には驚いた。

「ここで会ったのも何かの縁だ。どうだ、一緒に茶でもするか」
「いや、オレ手持ちぎりぎりなんで…」

この人と一緒に居るのは息が詰まる。
一緒に居ると変な気分になるから。

それは同じ空間に居るだけでもずっとリョーマの身に起こっていた。
他の部員は平気なのに、手塚だけは違う感じを覚え続けている。
高架下で試合をしたあの日から。否、出会った春のあの日から?

いつからソレが始まったのかリョーマ自身に自覚はない。
けれどある日、気付いたのだ。手塚の姿を認めている時というのは言葉では表現し辛い『何か』に自分が駆られていることに。

その正体をリョーマは知らなかったから、ただ単に気が合わないんだろう、と解決付けていた。


「なに、茶の一杯ぐらいは奢ってやるさ。ついて来い」
「いや、あの。オレ、買い物あるんで…」
「そういえば何かを探していた様子だったな。何を探していたんだ?」

真っ当とも云える問いにリョーマは詰まった。
自分でもソレを買いに来たことが不思議で仕様がないのだ。

ただ、明日で手塚が中学を卒業するということを思っていたら足が勝手に家の玄関を出ていたのだ。

言い辛そうにリョーマは暫く俯かせた視線を泳がせた。
前に立つ手塚は返事が無いことが不思議だったが、口を開くまで待った。

「あの…サイン帳を」
「サイン帳?」
「3年の先輩達に書いてもらおうと思って…」

納得したのか手塚は、そうか、とだけ淡々とした様子で答えた。
手塚としてはその答えだけに逡巡したリョーマの態度の方が気になっていた。

リョーマがその答えひとつに躊躇いを覚えたのは、自ら答えた購入の真意は別だったからだ。

卒業式の日ならば、サイン帳は不自然ではないと思ったのだ。
手塚から文字という形であれ、言葉を貰えるから。

リョーマは手塚から言葉が欲しかった。
そして、それを家に持ち帰って独占したかった。

けれど、リョーマ自身にその真意を確固とした実感はない。
ただ、無意識に、欲しいと思ったのだ。手塚の言葉が。


「ぶちょ…手塚先輩は?」
「ん?」
「何を買いに来たんスか?」
「ああ、俺は――…」

これだ。そう言って手塚は抱えていた紙袋からごそごそとやけに分厚い本を2冊取り出した。
その表紙を見せられて、リョーマははてなと内心で首を傾げた。

「和英と英和の辞書?」
「ああ。中学で使っていたものは些か頼りないからな」
「?」
「俺は…4月からはアメリカだ」

手塚の言葉でリョーマの身体は硬直を起こす。
冷凍庫の中にぶち込まれたような感覚。指の先から少しずつ凍って行くような、云い様も無い恐怖。

「越前?」

呼びかけられて、視線だけが反応を示した。
追い付くまでにはまだもう少しかかる長身の手塚を見上げる。

未だ、追い付いてすらいないのに。

「…アメリカって……留学、ッスか?」
「ああ。そのままプロを目指す」
「そう…ッスか…」

てっきり、手塚は内部進学をするものだと、リョーマは思い込んでいた。
また高校で自分を含め今のメンバーでもう一度全国制覇という名誉を手中に入れるつもりでいるのだと、そう思い込んでいた。

周囲からも手塚が内部進学をする、という噂はなかったけれど。
噂が無かったのは手塚が留学の締め切りまで進路を思い悩んでいたせいもあった。
その上、手塚は引退してからは部には顔を出さなかったし、他の3年生が部に顔を出した時もリョーマは手塚の話題は一欠片も切り出さなかったのだから。

いつか越えてやるという標的の一人だったけれど、部内では普通に先輩後輩だったのだ。
加えて、リョーマは手塚とは気が合わないと誤解を抱いている。そんな人間の行く末を訊ねる謂れなどなかった。

つまり、手塚の留学の話は初耳だった。

この人ならば留学の誘いの話もあるだろうというぐらいは想像していたけれど。
中学の後は高校での全国制覇を目論んでいるのだと思っていたのに。


明日を最後に手塚とは会えない。
海を越えない限り、声も聞こえない、気配も無い、鮮やかにボールを操る姿も見えない。

(明日が最後…)

明日は再出発の日だと思っていた。
リョーマにとっても、手塚にとっても。

明日はただ学校行事があるという以外は至って平凡な日の筈だった。
明日が終わっても、徒歩で行ける距離に手塚はいるのだと思っていた。

ほんの2年間を意義が無かれ有れ、過ごしていればまた手塚と同じコートで向かい合えると思っていたのに。

(サイン帳に言葉なんて貰っても…虚しいだけじゃん)

本当に欲しいものは、手塚の直筆ではなく、後輩への励ましの言葉や文字ではなくて――



欲しいものは



迫りくる本音と、認める事の恐怖がリョーマの咽喉から言葉を押し上げた。

「…行くな」

欲しいものは、彼自身。その全てを。

「え?」

ぽつりと零れた言葉は剰りに声量が弱く、手塚は聞き逃した。
不思議そうに小首を傾げる手塚が不思議にリョーマには映った。

「…オレ…今、なんか…言いました?」
「すまない、聞き取れなかった」
「いえ、オレ自身何を言ったんだかわかってないんでそんな気にしないで下さい…ただ…」

ただ、貴男が遠い大陸へと行ってしまうことが怖くて。
いくら伸ばしても届かない腕に空虚を感じてしまって。

好きだと、まだ伝えていないのに。

「ただ?」

語尾を濁したリョーマの言葉を手塚が反復する。

「ただ…」

ただ、貴方が好きだと。

「いや…何でもない、です…多分」
「多分って、なんだ。変な奴だな」

好きだ。
行かないで。

伝えたい筈なのに、本音を理性が押し込めた。
本当に好きなのか今一歩現実味がなかった。

人など、好きになったことはないのだから。

「部長」
「部長じゃない」
「手塚先輩、茶、奢ってくれるつもりなら、今からテニスしません?ここからオレの家近いんですよ」
「今からか?」
「手塚先輩とテニスしたら何か踏ん切れそうな気がするんです」

決着がつくのはこの気持ち?
それともただの雪辱戦?

「それに、最後に勝っておきたいんですよ。貴方に」























サイン帳。
サイン帳買いにいったらばったりと。
越前さん手塚の卒業まで何も言い出せず編。
なにやら微妙にポエットな感じで…。将来読み返して恥ずかしくなるんだろうな…
次期青学男子テニス部部長はリョーマに1票。葵の件もあるので1年でも部長になれなくはないみたいですし。

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