窓に叩き付けられる雨の音を彼方に、手塚は職員室を後にした。
今日は空が大泣きした様な雨模様で勿論、部活は中止。
この機を使っての顧問の竜崎とのミーティングも終了。
(越前を待たせているから部室へ行くとして…鞄は教室に置いたままだからその前に教室だな…)
一目散に昇降口へと向かおうとした足にブレーキを掛けて、自分のクラスがある階に向けて階段を上る。
帰ってから大石に今日の竜崎先生との話を伝えて…ああ、その前に竜崎先生に言付けられたことを乾に伝えてその返事を待ってから大石に連絡をして…)
放課後で数人の生徒が残っているとは云え、雨音が非道く煩い。
生徒の声をも掻き消さんばかりの雨音の鳴る廊下を黙々と進んで教室へと辿り着く。
(それが終わったら今日の復習をして…ああ、その前に風呂か…そういえば今度の休みに越前と映画に行く約束だったな…俺の見たいものならなんでも、とは言ったが…特にそんなものは無いんだがな…)
鞄を持って、再び教室の扉を潜って、手塚は下に繋がる階段を下った。
(映画の件は追々考えるとして…。…。しまった、辞書を教室に置いてきた…)
踊り場から一段下りようとしたその瞬間に思い出してくるりと踵を返そうと爪先に力を込めた瞬間。
ぐるりと世界が回った。
リセット
「部長、約束すっぽかすなんてひどい!」
翌日、朝練の始まりにリョーマの涙声が飛んだ。
恨みがましい目で睨みあげてくるリョーマを眼下に手塚は眉を顰めた。
「何事だ?」
「何事って、昨日のこと!!オレ、部室で待ってるって言ったのに先帰るなんて約束やぶるにも程があるんじゃない!?」
「どうしてお前が部室で俺を待つ?昨日は部活は中止だと言ったろう」
更なる怪訝さを現す様に手塚の眉間の皺が増える。
相手の発言を不審に思うのはリョーマも同じだ。
話が噛み合っているようで噛み合っていない。
「朝練のメニューに戻れ」
淡々とした様子でそう告げて背を向ける手塚は昨日まで知っていた手塚ではなかった。
否、厳密に言えば知ってはいるのだが、恋人として付き合い出してからは見たこともない手塚だった。
過去、出会ったばかりの頃に見た覚えのある手塚。リョーマをただの1年として認識していた頃の。
手塚から放り出されて、事態が上手く飲み込めず呆然と立つリョーマに乾は足音も静かに背後から近付いた。
「越前」
「ぅわっっ!!」
嫌な程によく響く低音で急に声をかけられて、驚きの剰りリョーマは飛び上がった。
「手塚、様子が変だろう?」
「へ、変ッス…ものすごく」
変だと思っているのが自分だけではなかったことに少しばかりの安堵を覚えるが、その事に安心している状況ではないのである。
リョーマは背後の乾を振り返る。
その訳知り顔な先輩の表情を見て、詰め寄った。
「何か知ってるんスね…?」
「昨日ね…雨が降っていただろう?」
肯定も否定もせずに切り出された突飛な話の出だしにリョーマは怪訝な顔つき。
まあいいから、とそんな後輩を宥めて乾は続きを話し出した。
「雨が降るとちょっと滑りやすい…渡り廊下やら中庭で水分をつけた上履きで生徒が校舎を闊歩するからな…」
「それで?」
何だか長くなりそうな乾の話の腰を面倒くさそうにリョーマが折る。
案の定にまだ何か言いたいことがあったのだろう乾は話の先を急ごうとするリョーマに困った様な笑い顔で嘆息をひとつ吐いた。
「手塚、滑ったみたいなんだな」
「は?」
「階段…事故現場は詳細に言えば踊り場でな。そのまま、階一つ分転落だ」
「ぇ…えええっっ!!?」
途端、先刻去った手塚の許へと駆けようとしたリョーマの腕を乾が掴む。
どうして止めるのか、と避難めいた視線で振り返られて肩を思わず竦める。
「まだ話の途中だよ」
「でも、階段一個分落ちたんなら部長どっか怪我してるかもしれないじゃないッスか…!」
今この場にすら居ない程の怪我をしたかもしれない。
滑る、ということは注意もしていない無防備な瞬間である事が多い。
特にあの手塚という人間は普段から隙なんてまったくない。寧ろ、小さな罠になど懸からないと自身で思い込んでいる節すらある。
そんな人間が雨で濡れて滑りやすくなっているとはいえ足下を掬われたのだ。
どれほど無防備な状態で段差を落下したのだろうか。
手塚の身がどうしようもなく心配で、リョーマは乾を振り解こうと腕を振り回すが容易く話してくれる相手ではなかった。
「致命的な外傷は無い。足やら肩やらに小さく痣がある程度だな。その点は既に確認済みだ」
「足!?肩!?確認済み!?アンタが見たの!!?」
「ああ。何か悪かったかな?」
「あったりまえじゃん!!肩だとか足だとか誰の許し貰って見てんの!?」
「保健医」
「っていうか話の先続けろよ!」
「話の腰を折ったのは一体誰だと思ってるんだろうね、このおちびさんは…」
これだから最近の若者は自分勝手で困るなあ、と最近の若者の一人である乾貞治氏はほとほと困り果てた様子で明から様に溜息を吐いてみせた。
目の前では今にも噛み付かんばかりの憤怒のリョーマ。
「長い話にするとまた話の腰を折られる可能性があるから端的に言うと記憶喪失だ」
「部長が?」
「落下の時に頭も打ったんだろうな。側頭部に瘤があるのも確認済みだ」
「アンタ、まさかその確認の時に髪とか触ってないだろうね!?触んなよ!?オレのもんに!」
「ちょっと触ったかな」
「触んな!」
怒りのゲージもマックスに、リョーマは掴まれていないもう片方の手で乾の手を渾身の力ではたいた。
思わず、乾の手も離れる。
「ちなみに記憶喪失と言っても手塚にとって重要なところだけみたいだけどね。直前までしてた考え事だとか。だからちゃんと越前の名前と存在は覚えていただろう?」
「ほとんど存在忘れられてる様な感じだったんスけど…」
先刻の手塚の様子を思い出す限り、恋人の扱いではなくて完全に部の一人、という認識だった。
「ああ、じゃあ手塚にとって君が恋のお相手だということは重要なことだったんだろうね」
「それはちょっと嬉しいけど…忘れられた事は辛いんスけど…」
がっくりと項垂れる。
励ましのつもりなのか、そんなリョーマの肩をぽんぽんと乾は軽く叩いてやった。
「そうだ。それと、」
どうやら乾の話にはまだ続きがあるらしい。思い出した様に呟かれた。
まさかこれ以上にショックな事だろうか、とリョーマが嫌な顔でゆるゆると面を上げるとスクエアの眼鏡がきらりと光った。
乾の向かい、つまりはリョーマの背後に在る朝の太陽の反射だと思いたい。
「治る見込みはなし」
「え?」
「一時的なものでもない」
「ええええ!?」
あたかも夕時のニュース番組のキャスターの様に淡々と述べる乾の胸倉を思わずリョーマは掴んだ。
と言っても、身長差33センチ先の胸倉を掴むのは一苦労なので指先で少し手繰る程度で乾にダメージはこれといって無い。
「こら、そこ!越前と乾!無駄話をそれ以上するつもりならグラウンドを5周してからにしろ!」
どこからどう見ても雑談をしている様にしか見えなかったのだろう。痺れを切らしたのか手塚から青学内でも究極のデコボココンビに檄が飛ぶ。
「やれやれ…ああいうところこそ忘れて欲しかったな…さ、越前ちゃっちゃと走って朝練のメニューを始めようか」
事態を漸くに飲み込んでの衝撃の度合いが大きかったのか動こうとしない―正確には動けない、のだろうか―リョーマの肩をぽんと軽快に叩いて乾はグラウンドに向けて足を進める。
「アレを落とすのにどれだけの時間と労力を使ったと思ってんだよ…」
リョーマにとっては長かったこれまでの道程を思い返せば涙の一粒ぐらい出てきそうな胸中だった。
「掴まえてからも離さないように大事にしてきたオレの努力って何…」
「まあ、もう一回片思いができるとポジティブに考えることだね。一方通行の想いというのもそう悪いものじゃないだろう?」
「漸くキスまで辿り着いたのに!!」
「はっはっは。まあ、頑張りたまえ。ほら、早くグラウンドに行かないと罰走が倍、更に倍、で増えるぞ、若者よ」
ぎろりとコートの彼方から目を光らせている手塚の視線から逃れるように乾はコートを出た。
ぎゃんぎゃんと涙声で喚くリョーマを引きずり乍ら。
リセット。
記憶喪失。
塚の記憶が戻るまでの続きが書けそうな予感がしないでもないので、また暇を見て書きたいです。
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