初雪
意識がのろのろと起き上がれば、耳障りなまでに五月蝿い目覚まし時計の音が聞こえる。
枕に顔を突っ伏したまま、手探りで自分を叩き起こそうとするそれを止めた。
(眠い…)
時計のボタンに手を乗せたまま、持ち上がりかけた頭はまた枕へと下降する。
そのままゆっくりと枕に沈んでいく頭と意識。もう一度夢の世界へと帰ろうとしたリョーマの背に衝撃が降ってきた。
ぼすん。
「ぐわっ…!」
ほぁら。
リョーマの背に飛び乗ったその家の猫はひとつ鳴いて、リョーマの真似をするように布団の上で蜷局を巻いて目を閉じた。
次第には寝息を立てはじめた彼とは裏腹に、リョーマはむくりと身を起こした。
「…すっかり、目覚めちゃったんだけど…どうしてくれんの?」
恨みがましく背中の彼に呟いてみるも目を開ける気配はまるでない。髭をぴくぴくと幾度か揺らしてまたぎゅうと蜷局を締め付けた。
「…ったく」
目を覚ましたからには仕方がない。リョーマはカルピンを起こさないように気をつけてそろりとベッドを降りた。
途端に、フローリングに触れたリョーマの足に痺れにも近い感覚が起こる。そういえば、部屋の空気も酷く冷たい。
先刻まで暖かい布団の中に居たのだから、その寒暖差は特に応える。
やっぱりもう1回寝よう。
ぶるぶると身を震わせて、ベッドに乗り上がればタイミングを計ったかのように階下から母親の声が飛んでくる。
「リョーマ!今日、誰かと約束があるっていってなかった!?早く起きちゃいなさい!」
「…」
「リョーマッ!!」
「今起きる…」
階下からはまだ母親のヒステリックな声が聞こえてくるけれど、リョーマは観念してベッドに乗り上げさせた足を床に戻す。ひやりとした感触はどうにも馴染めないけれど動かないわけにはいかない。
なにせ…
「…部長とのデートの日だもんなあ…」
何があろうとも遅れるわけにはいかないのだ。遅れない為には動くことが必須だ。
心の中でだけ寒い寒いと何度も呟きながらクローゼットへ向かう。
それから数十分が経ち、漸くリョーマの支度も調う。
忘れものはないかともう一度身の回りを確認して、ドアノブをくるりと回す。
「いってきま…」
ドアを猫の子が通れるかどうかという隙間から吹き込んできた風のあまりの冷たさと、向こうに覗いた風景とに思わずリョーマは扉を閉めた。
「…無理だ」
扉にぴたりと背を付ける。
暫くしてからもう一度ゆっくりと扉を開いてみるが、外の風景は変わることはない。
そこには、
辺り一面の雪。
純白の銀世界、と云えば聞こえはいいが事態はそんな可愛らしいものではない。
目測で見るだけでも足首程までの積雪。そして空から勢いの良い降雪。
強い風も相俟って外界は雪世界も猛々しい。
「……」
言葉もなく、静かにリョーマは扉を閉じた。
そして、臀部のポケットから携帯電話を取り出してメモリーを辿った。
何回かのコール音の後、いつもの冷淡な調子で相手は電話に出た。
「もしもし、部長?オレだけど…」
『…。何かあったのか?』
待ち合わせの時間まではまだ余裕がある上に、電話向こうもリョーマの声が随分と沈んだ声音で内心の焦燥を押し殺して手塚は尋ねた。
「外…見た?」
『外?ああ、初雪だな。それがどうした?』
「あの、さ…今日、外に行くって言ってたじゃない?それ、中止しない?」
『確かに少しばかり雪の勢いは強いがそれ程気に病む量じゃないだろう?』
そりゃアンタは雪が好きなんだろうけれど…
扉の向こうの豪雪を大したことはないと切り捨てる手塚に正直呆れた。
「でも、ほら、アンタの肩冷やしちゃいけないし。高校でも全国狙うんでしょ?」
『まあ、それはそうだが…』
「今日はアンタんちにオレが行くから。…そうしよ?」
『……』
電話の向こうでは手塚は押し黙る。リョーマの案に乗るかどうするかでも考えているのかもしれない。
どうかこのままイエスと返事をしてくれることを祈りつつリョーマは手塚の返事を息を潜めて待った。
「……」
『……』
「……」
『…。…お前、寒いのが苦手なのか?』
「へ?」
『だからそんなに頑に嫌がってるんだろう』
「そういう訳じゃ…」
否、実はそうなのだけれど。
冬の空気や雰囲気は好きなのだけれど、どうしてもそれに付いて回る寒冷は堪え難いのだ。
重ね着をすれば暖かいのだろうけれど、厚着は動き難いという辺鄙な理由で嫌いだったし、テニスをするにも寒い時期というのは体が暖まるまでにそれ以外の季節と比べて時間はかかるし体が冷える速度も早い。
そして、それ以上にリョーマは寒さが嫌いな理由もある。
それは…
『…嫌いなんだな』
ふう、と向こうから呆れた溜息が聞こえる。剰りにも安易に真実は見抜かれたらしい。
「…だって、外が寒くってもアンタくっ付かせてくれないじゃん」
『…。は?』
「今日みたいな寒い日はさくっついてたいじゃん。特に外とか今なんて雪まで降ってさ。そういう時でもアンタってば周り気にして手も繋がせてくれないじゃない」
『…だから、外に行くのは嫌だと?』
「そ。 それなら周りの目のない家の中の方がいいんだけど…」
はぁっ。
先程よりも大きく深い溜息。その強さに比例して呆れも強くなっているのだろう。
自分の我侭に困っているのだろう、と思わずリョーマは唇を尖らせる。手塚には見えていないだろうけれど。
『…越前』
「なに?」
小言の一つでも言われるのだろうか。何を言われたって隣に触りたくなる温源を置きながら寒い街中を闊歩するのはごめんなのだ。
寒いし、触ろうとすると怒られるし、良い事なんて手塚の隣に居られることしかない。
同じ寒い場所でも、密着しても何だかんだ言いつつ許してくれる室内の方が良いのだ。
『手さえ繋げばいいんだな?』
「…え?」
『それなら外出でもいいんだろう?』
「え、うん、まあ…そうだけど」
小言から180度は回転したかの様な思ってもみなかった手塚の台詞にリョーマは釈然とできない。
いつだって衆人環視を気にしているお堅いお堅い人なのに。
「えと…いいの?」
『折角の初雪なんだ。二人でその中ぐらい歩いておきたいじゃないか』
この雪量だからそんなに人も歩いていないだろう。
そう手塚は付け加えた。
リョーマとしては路上で腕を組もうがキスだろうが平気でやってのけるが手塚はそうはいかない。
そんな手塚が白昼堂々と手を繋いでも構わないと発言するなんて奇跡にも近い。
まさかこの日本でこの人が人前で手を繋ぐことを許してくれるなんて俄には信じ難いけれど、紛れもない現実。
嬉しさで口元が綻ぶのも仕方なかった。
『なんだ?急に笑って…不気味だな』
「初雪が幸せも一緒に運んできてくれたみたいだな、って」
幸せも降り積もらせた雪の道に向けてリョーマはやっと玄関からその先へと進んだ。
初雪。
初雪デート前のお二人のご様子。
前に初雪ものって書いた気もするんですけど…まあ、それはそれこれはこれの別次元のお話とお考えください
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