BGM
「越前、越前、」
考えずともそれは自分がかれこれ12年間お世話になっている名字。
「おチビ、おチビ、」
こちらはこの春からついたらしい自分の名前。
交互に二つの名を呼ばれて、リョーマは返事もなく振り返る。
後ろには、予想通りに桃城と菊丸。
「「こっち来てみ」」
見事に二人の声が重なる。二人揃って手招きのおまけまでつけて。
「…」
必要以上の笑顔が更なる特典。
そんな付録満載の二人の先輩をリョーマは訝しそうに見遣る。
「…なんか悪巧みッスか、先輩方」
「そーゆーんじゃないってバ!おチビったら疑り深いんだからっ。ちょっと聞きたいことがあってさーっ」
結局、自分にこちらへ来い、と言っておきながら菊丸が先陣切ってリョーマの元へと駆けてくる。
顔は先程からの飽和の笑顔のままで。
向かってくる菊丸にリョーマも渋々体を正面に向ける。
「これ、これちょっと聞いてみ?」
「MD…ッスか?何が入ってんですか?」
菊丸がジャージのポケットから取り出したのは掌に乗るサイズのMDウォークマン。
確か菊丸が通学の際に使っているポータブル機器はMP3だと前に言っていたからこれは桃城の分なのだろう。
「いーからいーからっまずは聞いてみる!ハイ、イヤホンッ、ハイ、装着ーっ」
半ば無理矢理にイヤホンを耳に捩じ込まれる。
ピッと短く機械音が鳴って、ウォークマンが再生を始める。
「バラード…ですか?」
始まり出したのは静かなピアノの演奏。
これが桃城の持ち物だとしたらクラシックではないだろうから、精々最近ランキングを賑わせているとか何とかの流行曲なのだろう。
「そうそう。桃がバラードなんて珍しいっしょ?」
「その為に聞かせたんスか…?」
そんな意外性なんて、申し訳ないが毛程も興味がない。
そのままリョーマがイヤホンを外そうと指をかけると慌てた様子で菊丸がリョーマの手首を取ってとめた。
掴まれた手は丁度万歳をする様に頭上へ。
「まだ歌始まってないっしょ?おチビに聞いてもらいたいのはそこなんだって!だからまだ外しちゃダメだよーん」
「…つか、このカッコってすごいオレに対して屈辱も甚だしいんスけど…」
屈辱よりも前にどうして二人で部活が始まる直前のテニスコートの端で万歳をしなければならないのか。正直、ちょっと恥ずかしい。
「だっておチビがイヤホンはずそうとすっからさー、不可抗力?」
「しょうがないじゃん、みたいな?」
いつの間にやってきていたのか桃城が菊丸の隣に並んで、二人で揃って首をカクリと傾げてみせる。
それからリョーマ一人を取り残して、一同笑い。
「この曲、前奏長いっしょ?」
「ッス。まだ流れてませんよ」
お二人がサムい漫才してる間も。
「もうそろそろ始まると思いますけどね…」
「あ、聞こえてきたッス…」
滑らかなピアノの旋律が一度途切れて、すうっと息を吸い込む音を合図に、イヤホンの奥からやけに涼やかな女性の声が聞こえ出す。
「…」
自分に聞かせたいものだと言うから一体何だろうかと思っていたが、取り上げて珍奇なものでもない。
面白大好きなこのタッグが何を目的でこの曲を聞かせているのか。
疑問を含めた視線を正面で未だに自分に万歳の格好をさせている菊丸を見上げれば、彼は桃城と合わせてにやにやと卑らしく笑った。
リョーマの懐疑心など余所に、曲は進行し続ける。
一定して、フラットな調子で歌う女性の声とバックのピアノだけがリョーマの耳を打つ。
「…?」
所謂、サビに入る直前なのだろう、フラットだった声音が次第に波を持つように激しくなりだし、声が途切れる。
ありがちとも云えるがそのバックに流れるピアノの演奏にリョーマは妙なデジャブを不意に覚えた。
「これ、どっかで聞いたこと…。………!!!」
サビが遂に始まったところで、リョーマの只でも大きな目が更に大きく見開かれる。
その様変わりっぷりを目の前の桃城と菊丸は愉しそうな顔をして眺めた。
「どーよ、おチビ?」
「…ちょっ、もう、これ外させて!」
自分で外そうにも手は未だ自分の頭上高くに据えられている。
菊丸に手を掴まれたままながら、リョーマがその場でバタバタと暴れるものだから、観念した様に菊丸も手を離してやる。
自由になった手で、リョーマはイの一番に自分の耳に捩じ込まれたイヤホンを音がしそうな程盛大な素振りで抜き取った。
「やーっぱ、この曲は何かあるとみた…!手塚も逃げ出したし、おチビも絶対拒否だし」
「え?部長に…?それ、聞かせた、んです、か?」
抜き取ったばかりのイヤホンをまだ両手にそれぞれ持ち、どこかリョーマは青い顔。
「そ。ただいい曲だからさ、手塚もどうー?って勧めて、聞かせたら真っ赤になって逃げたの」
「…なんてことしてくれるんスか…」
がっくり、とリョーマは肩を落とし、握力まで途端に失したのか、イヤホンがコトリと小さな音をさせて大地に墜落した。
「手塚が真っ赤、つったらおチビしかないなーって思って何か知らないかなーって訊こうと思ったんだけど…」
弾む様ないつも通りの声音もそこまでで、項垂れたままのリョーマが顔を起こさないことに気付いた菊丸はその場にしゃがみ込んでリョーマの顔を心配そうな表情で覗き込んだ。
「…何か、俺悪いことした?」
「史上最高に極悪なことしてくれましたよ…!」
「えーっえーっ!?そんな大変な事だなんて思わなかったんだってばー!!」
「人の傷口エグるような真似してくれやがって…」
ゆらり、とリョーマが漸く顔を上げる。人一人殺しかねない凶悪に顰めた眸は一路、事態を把握しきれていない困惑顔の桃城へ。
「もう太陽は拝めないと思え…」
「え、越前さん……?」
一筋、桃城の背を絶対零度の冷や汗が流れた。
遡る事、数日前。春日も燦々と輝く快晴の午後。
お日柄も宜しく、リョーマと手塚は初の外出のデート。
事件の現場は、昼食に、と入った中学生として身分相応のファーストフード店にて。
窓際の席を陣取り、向かいに座って仲良く昼食。
開かれた窓のすぐ外には葉桜も近い桜の木が生えていて、風がそよぐ度に数枚の桜色の花弁が滑り込んできていた。
勿論、都会も都会のこの場所ではその桜の後ろにはビルが立ち並んでいた。
不似合いとも云えるその風景ながらも、手塚は昼食を摂る手を止めてすっかり桜に見入っていた。
照る陽光の下、窓辺で時折入ってくるそよ風を受け、頬杖を突いて、目を細めて桜を愛でる手塚はどこかの豪奢な美術館に飾ってあるような絵画の様で。
しかもそのバックには店内の喧噪から一際浮いて、繊細なピアノのBGM。
桜に見蕩れる手塚に、リョーマが見蕩れていた。
ふわり、とまた微かな春風が手塚の癖のある髪を玩んで、去り際に薄紅の花唇を一匙置いていった。
手塚がその花びらに気付いている様子はない。ただ風だ通り過ぎた時に柔らかに目蓋を閉じただけだ。
リョーマもどうやら手塚が自分の髪に花片が付着している事に気付いていないらしい、と手塚の様子から悟って、親切心から取ってやろうと腰を浮かして上背を伸ばした。
視線を偏に桜に向ける手塚はそんなリョーマにさえ気付かない。
(…もちょっと…)
ぐぐっと更に腕を伸ばせば、指先が花びらに触れて安易にそれは床へと滑るように落ちた。
と、同時に、手塚がこちらを振り向く。
振り向いた手塚の視界に飛び込んでくるのは鼻先が触れるほどに接近しているリョーマのアップ。
そして耳裏に指をかけるように伸ばされたリョーマの指。
「…? ………!」
「あ、部長、今ね部長の髪に―…」
最初はどうしてリョーマがこんなに近くにいるのか、と不思議そうだった手塚の顔がみるみるうちに険しくなっていく。
その変化に伴って、リョーマの言葉も語尾が掠れて消えた。
「…お前、人が少しばかり打眺めているからと云って、何をしようとして…!!」
ふるふる、と小刻みに震え出した手塚の身に気付いて、何やら嫌な予感をリョーマの第六感が察知する。
「え、待って、何の事…?」
「しらばっくれるな。お前のこの手がココに来るのはあの時の癖だろう」
「あの時…?」
身動きができないのか、したくないのか、手塚が横目で自分の耳辺りにふわりと触れているリョーマの手を指す。
あの時、と遠回しに告げられて、リョーマが記憶の片隅を探ればすぐに何のことか思い至った。
「あ。アンタにキスする時の…」
「衆人環視の下、俺を恥さらしにするつもりか?」
「ち、違う違う…!!」
静かにではあるけれど、たっぷりと憎悪の色を含められた声音にリョーマも慌てて手を離し、腰を元の位置に下ろした。
「この期に及んで、シラを切ろうとするその根性だけは褒めてやる」
「違うって!頼むから人の話聞いて…!!」
「今度は言い訳か?…見損なったぞ。…………帰る」
席を立ち上がる音も高らかに、手塚は出口に向かった。
「待ってってばーっ!!」
今にも泣きそうな哀れなナリで、リョーマはその手塚の後を追ったのだった。
その時、流れていた曲目こそ、菊丸と桃城がリョーマに聞かせたあのピアノの調べだった。
BGM。
蘇る悪夢。そして明日の無いらしい桃城の運命。
まだまだ初心な頃の手塚さんですよ。
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