ぬくもり
















『寝る』という単語には俗に二通りの意味がある。
一つ目は、文字を額面通りに解釈された、所謂、睡眠、という意味。
そして、二つ目は、契りを交わす、二人の人間が同じ寝所で夜を共にすること。要は性交渉を指す。

後者の意味合いで、手塚とリョーマが『寝る』時もあったが、この時は純粋に前者の意味でお互い夜を明かしていた。
セミダブル程度も無い、酷くこじんまりとした一人用の手塚のベッドで。晩秋の薄ら寒い夜を。


その日、先に目を覚ましたのはリョーマの方だった。
朝靄以上に暈けた瞳をごしごしと擦ってゆるりと仰臥の体勢から身を起こし、唯一の光源の窓をちらりと見た。
カーテン越しということもあったが、窓から差し込む光は薄弱としていた。
その照射具合から、どうやらまだ朝も始まって間もない頃合いだろうという事が判る。

我ながら、こんな時間に目を覚ますだなんて珍しい事もあるものだと思いつつ、ふと隣を見下ろす。
壁際のそちらには、まだ穏やかな寝息を立てている長身の恋人が眠っていて。

少年にとっては絶景でしかないその眼下の様子に人知れず、リョーマの頬も緩む。

早起きは三文の得とは、先達はよく言ったものだ。

もっとすぐ傍で彼の寝顔を見たくて、一度は起こした身をまたベッドに沈めごそごそと微かな衣擦れの音だけをさせて身を寄せた。
部内では頑固一徹、テニスの鬼と名高い手塚の寝顔が見られるというのはそう滅多な事が無い限り見られるものではない。床を頻繁に共にしてもリョーマの方が自然と睡眠時間が長いせいで。
千載一遇。一期一会。
知っている限りの熟語が頭を過るが、視線はシーツと掛け布団とに挟まれた手塚の寝顔に集中していた。

どこか人工的にも思える滑らかな肌理を持つ皮膚も、細くけれど男にしては随分と長く生え揃った睫毛も、薄日に映えて厭に艶かしい。
きっと、この人が世界で一番綺麗な存在なのではないかと錯覚すら覚える。
自然現象で讃美される不思議に空に揺れるカーテンよりも、どんなに磨き上げられ世界一の匠の腕で装飾された宝石貴金属の類よりも、ずっと綺麗な気がする。

この人が自分を好いていてくれているという事実はどこか絵空事の様に信じ難いけれど、矢張り真実で。
嬉しい様な、どうしてこんな人が自分を引く手数多の中から選んでくれたのか不可思議な感情とで、恋人の顔をまじまじと見詰める度にリョーマは思う。

勿論、この関係まで辿り着いたのはリョーマなりの懸命な努力があったのだけれど。
結果の前では自分がしてきた努力なんて大した事なんて無い。

今、こうして隣に居るという結果を目の当たりにすれば。

リョーマが暫間、一人だけの幸せな時間を過ごしていると、不意に手塚がもぞりと身動ぎさせ、真珠の光沢にも似た滑らかな瞼を薄らと開けるものだから、思わずリョーマは身を伏せてまだ寝ている様に慌てて取り繕った。
見蕩れていた、等と云う事象はなるべく勘付かせたくは無い。
リョーマが望むものは手塚との『対等なポジション』。こちらが一方的に惚れ込んでいることは目標とするものを考えると宜しくない。
只でさえ、惚れた弱みの感が強いのはのはこちらなのだから。

「…ん」

もぞりとまた手塚が動く。
自分が手塚に見蕩れていた事がばれているのではないかと、リョーマは狸寝入りを決め込みつつも内心ではバクバクと心臓が鳴っていた。
警戒心から、薄目で窺う事もままならない。

まだ手塚が動いているらしい音が聞こえる。シーツが微震するような感触も。
否、シーツが震わせられていた事は事実だったのだけれど、この時動いていたのは手塚の両の手だった。

何かを探す様にぱたぱたと手の届く範囲を叩いて回る。
それほど間を置かずとも、その掌の捜索物は発見されたらしい。手塚の手が止まった。
俯せで寝るリョーマの項の上で。

脈拍がその刹那、一際大きく鳴ってリョーマは瞼をきつく瞑った。

リョーマを探り当てた手塚の手はそれが本当に探していたものか確認するかの様に、また動き出し、リョーマの後頭部やら肩やら腕に執拗に触れた。

緩慢に動く手のリズムに、まだ相手は寝惚けているのではないか、とリョーマの脳内で発案が行われた。

少しでいいから目を開いて盗み見てみようか。起きたとばれたら、アンタが触ってくるからだよ、と正論染みた言い訳でもすればいい。

リョーマは意を決し、こっそり瞼を持ち上げて手塚を見遣った。
その右目に映ったものは、見た事も無い程至福そうに口許を微笑ませている手塚。

(…絶対この人寝惚けてる!!)

確信にも似た…否、そうリョーマは確信した。

寝惚けているのなら、わざわざ寝たフリなんてするのではなかった…と後悔にも近いことを思っていると、触れていただけの手塚の掌がリョーマの左肩まで伸びて、抱き寄せる要領で力を込められた。
突飛にも思えるこの行動に、半分夢の世界に足を突っ込んだ人間がしていること乍ら、リョーマは驚いた。
そのせいでびくりと身が震えたけれど、手塚が気に留める様子は無い。

そのまま本当に抱き寄せられて、すっぽりとリョーマの小さな身は手塚の腕の中に収まった。
髪に手塚の寝息にも似た呼気が掛かる。

ぎゃーとかうわーとか、叫びたい気持ちを必死に押さえて、リョーマは只々黙った。

そうして手塚の腕の中で大人しくしていれば、今度は息では無く唇が髪に押し当てられる。
髪の後は耳朶、それから顳かみ、頬、終いには顎の輪郭までキスでトレースされて、リョーマの沈黙も身の硬直も限界まで達した。

これで、もし自分が俯せで寝ていなかったらこの人はどこまでキスを降らせてきたのだろうかと考えあぐねる。
今の体勢がラッキーな様な、アンラッキーな様な、何とも言葉にはし難い複雑な心境だ。

一度触れたところもまた辿り直して、キスの雨が降り続く。
降水確率は100%に限りなく近いだろう。それはもう絶え間なく降り注いだ。

もう何度目になるか判らないキスの後、ぎゅうと一際強く抱き込まれて、リョーマの肩に手塚の額が押し付けられた。
ぐりぐりと音がしそうな程、押し付けて数秒、ぴたりと手塚の動作が止んだ。

漸く、半分現実世界へ出かかっていた意識がまた夢の中へ戻ったのだろうか、とリョーマは考えるが、現は真逆の展開を催した。

ぱっと手塚の手が離れて、隣では人が起き上がる気配。
その気配は布団からも抜け出て、ベッドの上で部屋側に寝ているリョーマを跨いで、床へと降り立った。

「…また、やってしまった…」
(またって何、またって…!!!)
「…どうも、越前が隣に寝てるといかんな…」
(前にもしてた…ってコトかよ!爆睡してたオレのバカ!!)
「…まあ、寝相の一環、ということで…」

独り言なのだろう、ぽつりぽつりと声が漏れる。無音の室内では小声のそれも響いてしまうけれど。

「今日も越前はまだ寝ているし…」

狸寝入りを貫き通すリョーマには見えていないが、くるりと手塚はベッドへ振り向いた。

「…発覚する恐れはない」

もうばれていることを知らないのは一人だけ。






















ぬくもり。
晩秋、朝。つまりちょっと寒い。
寒い=暖を取りたくなる。手塚の場合、越前で暖を取る。
お幸せに★
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