水の中
ばしゃん、と一際大きく撥ねる水音に、手塚は振り返り、喩えどんなに強請られても連れて来るべきではかった、と後悔の念を抱いた。
我慢の効かない人なのだろうということは短いながらもこの数カ月で何となくは気付いていた。
そんな人を連れて、釣りだなんて、少し、ほんの少しだけ嫌な予感はしたのだ。
だけど、そのこちらの予感もお構いなしに、浅瀬でばしゃばしゃと駆け回るその人は行くと言って聞かないし、しかも度々家に押し掛けてくるその人を中々に気に入っているらしい実父と実母から畳みかけられる様に一緒に行ってらっしゃいと言われるし、自分にとっては正直『仕様がなく』という思いがあるのは否めないだろう。
そんなに水辺ではしゃがれては水中の魚も逃げるというもので。
「…部長」
止むなく、声をかければ、リョーマは飛沫の降り掛かった髪をぷるりと振って、こちらを向いた。
「なに?」
「魚が逃げます。そんなにはしゃがれると」
「いつまで経っても魚なんて糸にかかんないじゃん。ひょっとして魚いないんじゃない?この川」
いつまで経っても。リョーマはそう言うが、大人しく座って水面に糸を垂らしていた彼の時間は10分かそこらだった様に手塚は記憶している。
始めて10分で魚が釣れるのならば何とも楽なものだ。
「釣りには忍耐が必要なんですよ」
それだけを淡々と述べて、手塚はまた水面に正面を向けた。
ふぅん、とリョーマは小さく鼻を鳴らす。
まだ小さな小さな背中。
それを持つ人間の双眸が自分をまた見なくなったことに小さな憤りを覚えて、
ばしゃり
リョーマはまた水面を蹴った。
「…」
水音に振り返り、窘める視線で射抜かれるけれど、リョーマは笑った。
「こうやったらお前、こっち向くのな」
「そりゃ、見ますよ。迷惑ですから」
視線をいとも簡単に奪い返せたことが可笑しくて嬉しくて、笑った。
「随分はっきり言うね、迷惑だなんて。よりにもよって『部長』に向かってさ」
「遠回しな言葉は通じないでしょう?それに俺も遠回しな発言は嫌いです」
「あー、手塚鈍いもんなー」
「…鈍い」
たったそれだけの単語に見目にもはっきりと手塚は不快そうな顔をした。
そんな手塚の表情もリョーマの『ツボ』にはまった。
けたけたと声をあげて笑い出したリョーマに容赦なく手塚の見咎める視線が突き刺さる。
「部長、大きい声でも魚逃げるんですけど…」
「だって、手塚ってばおかしいんだもん」
「…。…騒がれるにしても、川で遊ばれるにしても、もう少し遠くでどうぞ」
「えー」
「俺は釣りに来たんで」
その言葉を最後に、手塚はまた水面を見詰めだし始めた。
リョーマが試しに川を蹴りあげてみても、今度は一切の反応は無し。
「ちぇ」
唇を尖らせてみてもやはり手塚に反応は無く。
だからと言って、また大人しく釣り用に持ってきた折り畳みの椅子に腰掛けにいく気は起こらなかった。
恐らく、リョーマの性分とはあまり合わないのだろう。
仕様がなく、リョーマは手塚の言う通りにもう少し遠く――更なる川の上流へと足を進めてみた。
初夏の陽気に冷たく足下を流れていく水流も自分が歩く度に耳を打つ遡行の水音も心地良い。
自分一人では到底、来はしないだろうこの光景はリョーマの胸を躍らせ、川底を歩む速度も自然と速くなった。
(手塚は、いつもこういうとこに来てんのかな?)
それは少し羨望も含んだ感想だった。
いつもこんな心地の良い場所に来て、いつもあんな風に川岸でぼんやりとしているんだろうか。
リョーマは足を止めて、手塚が居る方向、自分も元居た場所を振り返る。
視線を感じたのか、手塚も不意にこちらを向いて、視線がかち合った。
「あまり上流に行かれると時々深い場所もありますから、気をつけて下さいね」
瞳が通じて、第一声が子供相手にも思える台詞で。
少しばかりカチン、と来てしまって、途端にリョーマは身を翻して駆けた。
ばしゃんばしゃんと大きく撥ねる音が清閑な空間に谺する。
「あと、川底の藻で滑りやすいので気をつけて…――!!」
速度を上げて遠ざかって行こうとするリョーマに向けて更に注意を促そうとしていた手塚の言葉は途切れる。リョーマの姿が消えるのが見えた。
川に吸い込まれる様に、足から川の中へ埋まっていった瞬間を。
「部長!」
咄嗟に立ち上がって、リョーマが居た辺りまで川岸伝いに駆けた。
丁度リョーマが居た辺りまで駆け付けた時、水中からリョーマが顔を出した。
「…っぶね。一瞬死ぬかと思った…」
「死ぬかと思ったのはこっちの方ですよ…」
全速で駆けてきた事と、リョーマの無事による安堵から大きく息を吐き出す。
そんな手塚を見遣り、髪の先から雫を滴らせつつ、リョーマは何故か笑った。
見ていた手塚からすれば笑っていられる場合ではないのだけれど。
「濡れちゃったし、このまま泳いでよっかな。この先、ずっと深いみたいだし」
「勝手にしてください…俺、戻りますんで」
自分の心配も余所に、飄々と楽しそうな顔で言いのけるリョーマを目の当たりに、はぁっと肺の奥からも絞り出した様な大きな溜息を吐き出し、手塚が踵を返そうとした瞬間、手塚の体が後ろにがくりと傾いた。
「…え?」
「手塚!」
自分の身に何が起こったか、確かめようと半ば振り返りかけたところで、耳元で大きく飛沫の音がして、水中に身が沈んだ。
水中特有の膜がかかったような視界に否が応でも状況が判る。
(川岸ぎりぎりの土は結構脆いからな…足を滑らせたかな…)
緩慢に沈んでいく我が身をぼんやりと意識しつつ、冷静に手塚は状況分析。
足は届かないけれど、別に泳ぎが苦手な訳ではないし、自分の状況さえわかれば手塚にとってはどうという事はなかった。
(結構、この川、冷たいんだな。中には入ったことが無かったから知らなかった…)
さて、そろそろ腕を動かして水面に上がろうか、と漸く思い出した頃、何かが直ぐ傍で沈んできた。基、潜ってきた。
何のことは無い。それはリョーマだった。
焦燥した顔で潜ってきたリョーマに手塚は至って平静な顔をして、水面を指す。
『自分で上に上がれますから』そういうサインだった。
それを見てもリョーマもどこか安心した様な顔をする。大方、突然水中に墜落して手塚が慌てているとか、ひょっとして溺れていたら、だとか、マイナスな事でも考えていたのだろう。
『わかった』と言う様に、ひとつ頷いて、リョーマが動き出すのと同じタイミングで手塚も腕を動かす。
けれど、泳ぐ先が水流と同じだった為か、するりと手塚の眼鏡が一人で泳ぎ出した。
あっ、と思って手塚が腕を伸ばすのと、リョーマが腕を伸ばすタイミングは見事に一致していた。
丁度、眼鏡を捕らえた手塚の拳を包み込む様にリョーマの掌が重なる。
冷たい水中でも重なる部分はお互いの熱が感じられる。
手塚はリョーマの掌。
リョーマは手塚の手の甲。
何とは無しに、手塚は腕を辿ってリョーマの顔を見る。
リョーマは既に手塚を見ていて、実在はしない視線が木漏れ日で揺らぐ水中でぶつかった。
どれくらいそのまま見詰めていたかは手塚には判らなかったが―息が苦しくはなっていなかったから、きっと本当に短い時間だったのだろうとは推測できる―次第にリョーマが自分の拳を上から握ってくる感触が強くなってきて、その強さと比例する様にリョーマが顔を近付けてきて。
緩く傾いた顔でキスをされたのは手塚もリョーマの手の中で拳を強く握った瞬間だった。
思わず、手塚は目を瞑る。強く。
水中という特異な空間で、自分の体重もふわりと軽くて、目を瞑ってしまうと、左手に重なるリョーマの掌の感触、と、奪われている唇と繋がるリョーマの唇の温度だけで。
左手と唇だけがこの世に存在している様な、奇妙な体感を味わった。
そう長くは無い時間が経って、不意に唇が気配を無くす。
その後にはリョーマの胸板に顔を押さえつけられて、上昇していく感覚が取り巻いた。
さらにその数瞬後には水面を撫でる風が頬を掠めていって、漸く水上に出たのだと判る。
手塚は、そっと瞼を持ち上げた。
「…ごめん。なんか、したくなって…」
久しぶりにも思える空気を吸い込んでいれば、頭上からぽつりと声が降ってきて、手塚はそちらを向く。
ごめん。
その言葉が何度か手塚の頭の中で反芻されて、今更に手塚は先刻の行為を思い出した。
途端に、耳の先まで赤くなっていって、反射的にリョーマを突いて自分で川岸へと上った。
「お、おおお、俺、帰ります」
「え?」
自分の声が妙に上ずっていることは判っていたけれど、どうしやっても今の手塚にはこの声しか出そうになかった。
きっと、心臓が高鳴り過ぎて脳に血が送られ過ぎて頭が正常に稼働されていない。
「…ちょ、手塚?悪かったって言ってんじゃん」
「部長も、帰り道お気をつけて。それじゃ失礼します」
そのまま、全身濡れたまま、眼鏡も握りしめたまま、右足と右手を同時に動かして次第に小さくなっていく手塚を呆然と見送り、その姿が完全に見えなくなってから、リョーマは水中から脱出した。
「…もしかして、初めてだったの、か、な?」
その憶測に思わず込み上げてくる笑いもあるが、二人分の釣り道具一式が視線に入り、これらを手塚家まで届けること思い、その愉しい笑いはナリを潜めた。
水の中。
年齢逆設定で。
ついにちゅうまで来ました。まだ正式につき合ってもないんですけど。
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