こっち向いて
「いい加減…こっち向いたら?」
手塚が壁側に正面を向けて拗ね出したのはかれこれ数十分も前のこと。
因に手塚本人に『拗ねている』という自覚はない。飽く迄、顔が見たくないからリョーマに背中を向けている、という主張である。
それを拗ねていると言う以外、何と表現したらいいのか、手塚の背後に座るリョーマは知らない。
「ちゃんと埋め合わせはするって言ったじゃん」
「…」
「ドタキャンになったことも悪かったって謝ったでしょ?」
「…」
「…もぉ」
取りつく島もなく、手塚の背中を見詰めた。
しゅん、と気落ちしている様に見える華奢な姿は、こんな時だというのにどうしても可愛く見えてしまって、つい抱き締めたくなる。
手塚がこうも拗ねはたばるのは、本人も認知しているがリョーマに全責任があった。
突然のデートのキャンセル。
それ自体はリョーマが半ば強制的に約束を取り付けたもので、自分勝手だな、と手塚は思いこそすれ、止むを得ない事情があるのだろうと深く詮索もせず、約束の取り消しに二つ返事で応じた。
問題にすべきは、キャンセルそのものではなかった。
キャンセルにまで至ったリョーマ側の『事情』というやつだ。
学校帰りで立ち寄ったというストリートテニス場、そこで玉林中のダブルス組にこてんぱんにやられたとかで、桃城と特訓をするから、と後に明かされた事実が、手塚をこんな自体に貶めていた。
手塚からすれば、『自分に内緒で他の男と』という辺りにショックを覚えたらしい。
いくらリョーマが桃城をそんな目で見ていないとか、友達でしかないと説き伏せても一向に聞かない。
「ねえ、機嫌直してよ」
「…」
「黙ってないでさ。こっち、向いて?」
座ったままの体勢でリョーマが手塚との距離を詰めれば、逃げるように手塚は更に前に詰めた。
「…オレが悪かったから」
「……。…誠意がこもっていない」
「込めてるよ。精いっぱい」
声が返ってきたことに一瞬安堵を覚えるけれど、今にも泣きそうな程に湿った声で、気掛かりばかりが胸中を占める。
「もう、帰れ。放っておけ」
「こんなアンタ放って帰れるワケないでしょ。そんな薄情な男じゃないよ、オレ」
「…充分薄情じゃないか…俺との約束は破棄して桃城と会って」
「だから。アンタが疑うようなことしてないって。ただのダブルスの練習じゃん」
嫉妬を越えて疑惑の域にまで達している手塚に、リョーマが成すべき処置はないように思えた。
取り敢えず、手塚ぎりぎりまで距離を詰めて、視界の全てを埋める背中にこつりと額を寄せた。
「アンタ以外、オレの目には映ってないってば」
「…」
「…信じてよ」
きゅう、と背後から抱き竦める。手塚は抵抗はしない。
従順に抱かれていた。
「…」
「……」
事情説明も説得も全て言い尽くして、リョーマにはもう言葉はない。
手塚も杳として口を開く気配を見せない。
自然と、ただ沈黙だけが空間を支配していた。
その静寂を破ったのは、持てる言葉はもう持たない筈のリョーマから。
「…ねえ、キスしよう」
「…」
「仲直りのキス」
「…。いやだ」
手塚が口を開く度に声が体の中で反響するのか、押し当てた額が微弱に震えるのを感知する。
逆にリョーマが口を開く度に鼓膜を震わせる様にこの声は手塚の体の中を揺らせているのだろうか。
「…なんで、いやなの」
「いやだと言ったらいやだ」
「…〜〜っ!いくら部長がいやだって言ってもやる」
「越前…!」
強引に肩を掴んで、こちらを向かせればたっぷりと潤んだ双眸を湛えた手塚がこちらを向いた。
「やっぱり、泣きそうな顔して…」
肩を竦めて呆れ顔で言えば、むっとした様な顔で、またあちらを向こうと手塚が体に回転をかける。
それが最後まで回りきってしまう前に、腕を掴んだ。抵抗するように手塚は小さくではあるが暴れる。
けれど決して本気で抵抗している訳ではないから、難なくリョーマは手塚の前へ回り込んで長い前髪から覗く額にキスを落とした。
手塚もその瞬間に目蓋をぎゅっと強く瞑る。何かの衝撃に耐える様に。
「どこ、キスしてほしい?」
「…どこにもしなくていい」
「どこにしてもいいって?」
くすり、と笑って、手塚から批難の声が来るよりも早く、リョーマは目蓋に唇を。
一度は開いた眸はまた閉じられる。
そこからリョーマは余す事なく手塚にキスの雨、否、嵐を。
穏やかに、けれどピッチは早く触れてくる幼い唇がこそばゆくて、手塚は身を捻る様にリョーマの腕から抜け出ようと試みる。
その行為は嫌がる、という意味合いというよりは――…
「越前、くすぐったい」
先程までへの字に歪んでいた唇はいつの間にか喜色の蕾が芽吹いていた。
じゃれあう様に、キス、キスキス。
こっち向いて。
仲直りキス。…べただ。どちくしょう。
ダブルス特訓の時に、おいおい手塚はどーしたよ!?と浮気疑惑を持ったのはわたしです。
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