Special M's day
ただいま、といつもならば跳ね返ってなどこない声がその日に限って、おかえり、と帰ってきた。
玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先、ダイニングのドアからひょこりと顔を出すものがあった。
「越前」
驚嘆した声で、手塚が相手の名を呼べば、名の主はえへへと笑ってドアから全身を現した。
そのまま、パタパタとまだ幼い足音で手塚へと駆けた。
「どうしたんだ?今日はいやに早いんだな」
「特別にトレーニングメニュー早く切り上げてもらったの」
目の前まで辿り着かれ、また楽しそうに微笑まれる。
てっきり、助走もそのままに首へと飛びついてくるだろうと思っていたその両腕は後手に回されている。
珍しいこともあるものだ、と内心思いつつ、リョーマの言葉の節に抱いた疑問をそのまま反復する。
5月も半ばの今日その日は手塚の記憶に引っかかるものなどない。
「特別に?」
「そ。だって、今日は……」
パッ、とそれまで背中に回されていた両腕が手塚へと掲げられる。
その手には、
「母の日、でしょ?」
真っ赤に花開いたカーネーション。
差し出された赫い海原と、リョーマの笑顔とを思わず見比べ、結局、手塚の口からは溜息が零れた。
「越前、母の日ならば御母堂にそれは送った方がいい」
「なんでさ」
「俺は母ではない」
「母さんみたいなもんじゃん。家の事任せてるし。で、オレが稼いで来てるからオレが父親だよね」
いつも、本当に常々思うが、この恋人の思考回路は計り知れなさ過ぎる。
女でも無く、子など勿論おらず、世間一般から見ればただ同棲しているだけの自分に対して、母だと言って退けてみたりして。
どこかから入れ知恵されたものか、はたまた、本人の脳神経が導き出したものなのか。見当はつかなかった。
「越前…」
どう対処したものか、困り果ててまた名前を呼べば、彼も困った様な顔を浮かべていた。
「怒った?」
「いや、怒りはしないが…」
「じゃあ、呆れた?」
しゅん、と肩と首部が垂れる。目の前のカーネーションも心持ち角度が下がった。
「…。…わざわざ、買ってきたのか?これは」
「え?」
「カーネーションは」
「あ、うん、そうだけど」
「トレーニングも、本当にスタッフの了承を得て早く切り上げたんだな?」
「途中で勝手に抜けてきてないよ」
リョーマの返答に、そうか、とだけ手塚は静かに答える。
どこか、彼の不満をかうような答えがあっただろうか、と手塚のその声音にリョーマが顔を曇らせるが、
「ありがとう」
手塚の口を次に突いて出て来た言葉はそれだった。
触れるか触れないか、際のところでリョーマの顳かみへと唇を寄せ乍ら。
「頂いておこう」
そっと、飽く迄優しく、リョーマの手から赫い花束が奪われた。
にこり、とリョーマは笑む。手塚もつられたように、少し笑った。
「と、言うわけで、今日はアンタの好きなもん作ったげるよ。何がいい?」
食卓へと座らせ、いつもならば手塚が纏っているエプロンを片手にリョーマはそう告げた。
何がいいか、と尋ねられ、手塚は思案するように顎を摩った。
「何でもいいよ」
「…ちゃんと作れるのか?」
「作れるよ。アンタ、オレのこと嘗めてない?結構小器用なんだけど?」
「そうか…」
思えば、同棲を始めてもリョーマの手料理というものは片手で足りるぐらいしか食べたことがない。
そのどれもが、自分が体調を崩した時ばかりで、つまりは粥程度の簡単なものばかりだった。
まさか、夕飯の席で成功率の高そうな白粥を頼む訳にはいかないし、何よりもその答えは彼のプライドも傷つけてしまうだろう。
リョーマの腕が正直なところどの程度のものなのかは知らない。小器用、と宣う彼の言葉を信じていいのならば、
「鰤があっただろう?それで照焼きがいい」
「ブリの照焼き、ね。OK」
今日は機嫌がいいらしい。またリョーマの顔が笑顔に変わった。
好きな人の為に何かをすることが楽しくて嬉しい、と感じていることなど、どこか螺子の抜けた手塚は気付いてはいなかった。
ただ、機嫌がいいのだな、とそれだけしか考えは及んではいなかった。
ダイニングの手塚には背を向け、しゅるりと鮮やかな程にエプロンを纏ってリョーマは冷凍庫の引き出しを開けた。
どこにでも売っているような簡素なエプロンだというのに、その姿ひとつとっても似合っているなと考えてしまうのは、恋人の欲目だろうか。
普段、触る事などない故に、目的のものがどこに眠っているのか判断がつかなかったのだろう、ごそごそと暫く冷凍庫を漁っていたリョーマだったが、やっと見つけだしたらしく、冷凍庫の閉まる音がパタンと鳴った。
手塚の居る位置からではパーテーションが些かの邪魔をしてリョーマの頭程度しか見えないが、キッチンの間取りは頭に叩き込まれている。リョーマが動いた位置で、電子レンジへと向かったらしいことはわかった。
なんだか、嫌な予感がした。
「おい、えちぜ…」
そして、大概に嫌な予感というものは得てして当たるものだったりするわけで。
パァンと銃声にも似た破裂音がキッチンに響いた。
「〜〜〜っっ」
頭痛が起こった時の様に、眉間を押さえながら手塚は席を立ってキッチンへと向かった。
そこには案の定、皮の引き裂けた鰤を片手に困った顔をしているリョーマが立っていた。
「お前、解凍するだけなら、そういうボタンがあっただろう」
ほら、ここに。と指で差し示してみせる。そこには漢字の判る大の大人ならば誰でも理解できるであろう『解凍』の文字。
「知ってたって。ちょっとぼんやりしてただけ」
「嘘吐け」
「ホントだって。アンタは座っててってば。今日は母の日なんだからさ」
明らかにその顔は嘘を吐いている。
このまま、料理をさせていいものか、将又、ここからは変わって自分がやってやるべきか。手塚は逡巡した。
「それとも何。オレのことが信じられない?」
「そういう訳ではないが――……」
半信半疑、と言ったところだ。今現在は。
「でしょ?なら、座っててってば」
「……お前、照焼きの作り方は本当に知っているのか?」
「知ってる知ってる。みりんとショウユにつけ込んで焼けばいいんでしょ?」
「まあ、端的に言えばそうだが…」
「ほら。後は任せて。何なら先に風呂入ってていいから」
ぐいぐい、と背中を押される。
戦場になるであろうことは予測に容易そうなだけに、手塚は渋った。そんな手塚にリョーマは苛立ちを募らせ始めた。
やってのける自信はあるのだ。その根拠はどこにも無かったりするのだけれど。
キッチンから出て行こうとしない手塚に、リョーマもとうとう痺れを切らした。
閨での雄の顔に豹変させ、手塚の耳朶に柔く噛み付きながら言葉を吐いてやった。
「そんっなに、オレと風呂に入りたいって?何なら風呂の中で上せるまで触ってあげてもいいよ?」
「違…っ」
途端に、手塚は身を庇う様に自身を抱いた格好で、リョーマと距離を取る。
リョーマの口角に卑らしく、ニマリと持ち上がった。
「なんで。一人で風呂入りたくないんでしょ?」
「そ、そうじゃない…!」
「遠慮しないで。サービスしたげるよ。何せ、今日は母であるアンタに感謝する日だもんねェ?」
語尾上がりに、勝ち誇った様にリョーマは手塚へとじりじりと距離を詰める。
「なんなら、食前に軽く二人で運動でもしよっか。空腹は最高のスパイスだって言うし?オレが例え料理失敗したってそれなら食べられるよね?」
「ま、待て…!話せばわかる…!!」
「じゃ、イタダキマス」
「ちょ、待て…!…やっ」
調理される筈だったその日のメインディッシュに手がつけられたのは、それから数時間後。
special M's day
とびきりの母の日。
23456hitゲッタの松本さんより、料理する越前さんを見守る、というか口を出す手塚氏、ということでリクを頂きです。
同棲中なお二人さんで。
…料理…解凍までしか…ガタガタ。
照焼きはオオザキの得意料理のひとつです。(すごく要らないまめ知識)横浜時代にそればかりしてました。ありとあらゆるものをテリっていました。
簡単な割に美味しいですよね、照焼き!!
越前さんキレやすい子ではないとは思ってマス……。
23456hit、多謝。礼!礼!!
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