秘められた歌
















こんこん、と思わず堪えていた咳を吐き出してしまって、気まずい顔でリョーマは手塚を見上げた。
ほら見ろ、とばかりに手塚は誇らし気に口角を吊上げてみせる。



つい、今し方。
起きて来たリョーマの顔がどこか赤味を持っている気がして指摘すれば、何でも無いよ、と言って出掛ける支度をし出して。
そしてその支度を終わらせて、朝食の居並んだリビングのテーブルへ来るまでの足取りもどこかふらふらとしていて、手塚が再度指摘してみるも、矢張り、何でも無い、とリョーマは返すばかりで。
風邪じゃないのか、と詰問する様に指摘してみても、リョーマは首を横に振るばかり。その顔は健康な人間がするような色はしていなかった。僅かばかりだけれど、赤い。
目もどこか気怠気で、熱を帯びていたから、手塚はみたびリョーマに尋ねた。いや、それは断定と言っていいだろう。
お前、風邪だな?とどこか不機嫌そうに尋ねた。
それでもリョーマは朝食を頬張りつつ、違うよ、とどこかムキになって答える。
答え終わって、口の中の朝食を嚥下した時に、冒頭の咳は出てしまった。
小さなものだったけれど、確かに、こんこん、と。そしてそれを二人しか居ないテレビの電源も入れられていない静閑な室内で手塚が聞き逃す訳も無く。

「今日は一日布団の中に確定だな」
「……やだぁ」

リョーマの額の温度を自らの掌で計り、自分の判断が合っていたらしいことを悟る。常に自分よりもどこか体温の高いリョーマだけれど、触れた掌は明らかに平素のそれよりもずっと高い体温を感じ取った。

「いやだじゃない」

心の奥底から本当に嫌そうな声で抗議するリョーマの熱い額をこつん、と折り曲げた指の背で小突き、手塚はリョーマの朝食の為に椅子に腰掛けていたリョーマの腕を取り、半ば引き摺る様にしてつい先程リョーマが出てきたばかりの寝室への扉へと向かう。
腕を引かれつつ、尚もリョーマは幼子がぐずるように抗議の声をあげる。

「お前、今、熱が何度あると思っているんだ」

先刻の触診の限りでも、充分に風邪と判断を下せる程だったのだ。決して軽い初期段階の症状ではない。
我が身を振り返ろうとはしないリョーマに苛立たし気に言い放つ手塚に、もう『幼い』の部類で括られる年齢ではないと言うのに、リョーマは頬を膨らませた。『幼い』仕草。

幾らリョーマが負けず嫌いの性分だとは言え、ここまで手塚の言い分に従わない事には多少なりとも理由がある。
手塚もその辺りは解っているから、否、解っているからこそ、腹を立てるのだ。

今日は丁度二人揃ってオフの日で。
久しぶりにどこかへ出かけようかと休みの日がお互い決まってからずっと話していて。
天気も、適度に雲がたなびき微風がそよぐという、外出には持ってこいの小春日和で。
そんな秋の日に、どうして突然風邪などに襲われなければならないのか。特等に歯痒く思っているのはリョーマ自身だった。
一日中、ベッドに一人だけで放り込まれて折角の休日を過ごすなんて真っ平御免だった。大きくなった二人では想いも大きくなっているし、その分、一緒に過ごしたいと思う気持ちも増幅しているのに。

そんなリョーマの内心に気付いているであろうに、手塚は不貞腐れたリョーマを片手に、行き着いた寝室のドアを開ける。
二人で住むには丁度良い、然程大き過ぎはしないこのマンションの一室では数歩歩いた程度で移動は終わる。
その窓辺に設えられたベッドへ半ば放られる様にしてリョーマは投げ出された。そして起こした視線の先の扉は小さく音をさせて閉じられる。

「ちぇ…」

一度は起こした顔をまた布団へと埋めてリョーマは一人ごちる。
窓の外の快晴具合が今は非常に腹立たしい。
手塚が口を酸っぱくして言っていた様に自己管理はきちんとしておくべきだったと強く感じずにはいられない。

つい先程起きたばかりで、眠気もとんと来ないのにこんな所に放置されても正直困る。
頭はそう考えるけれど、ウイルスと戦闘中の身体は酷くぐったりしているのが自分でも解って、已むなくリョーマはもぞもぞと蠢いて布団の中へと収まった。

身体ばかりは熱いのに、どこか寒気がする。
しかも部屋には一人で、体調の芳しさも無いところへそれは追い打ちをかける。

きっと今頃、もう一人のこの家の住人はリビングで蔵書の一つでも読んでいるのだろう。自律を普段から大いに言及する人なのだから、風邪が伝染らないようにするにはそれが無難な策だ。
精々、食事の度にぐらいしか此処へ来てくれないだろう。

「…つまんないの」
「病人とは得てしてそんなものだ」

憮然とした顔で一人で愚痴を零してみれば、それに返事があって、驚いた様に何度かリョーマは目蓋を屡叩かせ、ゆっくりと頭を枕から浮かせた。
視線は先程、閉じられた部屋の出入り口へ。

そこに、電気ポットとマグ、それから何やら色々詰まっているらしい紙袋を携えた手塚が立っていた。

「…なにしにきたのさ」
「何、とは随分だな。看病しに来てやったに決まっているだろう」
「ふぅん。一体、どう看病してくれるのか…な、ってちょっとアンタ!」

手にしていたものをベッドサイドのローテーブルに置いて、そのままリョーマの居るベッドへと身を滑らせてきた手塚に思わずリョーマは病む身体を勢い良く起こした。
目の前の出来事に目を白黒させるリョーマとは裏腹に、手塚は淡々とした顔でリョーマを見上げた。

「声も掠れてきたな。喉もやられてきたか」

擦る様に腕が喉元へ伸びて来る。
リョーマは只々、動じてしまうだけだ。

「ちょ…、も、なんなの?意味わかんない」
「心外だな。まあいい。取り敢えず、寝ろ、病人」

身体の懈さと恋人の奇天烈な行動とに、全身からリョーマが溜息を吐けば、手塚が自分のすぐ隣を掌でパンパンと叩く。
色々問いたいことはあったけれど、どうも従ってやった方が早いらしい。リョーマは手塚の隣に身を沈めた。
上から手塚が捲れた掛け布団を掛けてくれる。

「病人のこんなすぐ近くに居たら病気うつっちゃうよ?」
「伝染せばいいだろう。その方が治りが早い」

と、俗に言うだろう?
まるで人を試すかの様な底意地の悪い笑み。それを浮かべてリョーマを見据えてから、手塚は身体をゆっくりと動かして持参した紙袋の中から蔵書の一冊と思われる本を取り出した。

「それに、俺が風邪を引いたら今度はお前が看病する番だろう?」

真逆、見捨てたりしないだろうな、とばかりに少しばかり険を含んだ視線がまたこちらへやって来る。
もし、そうなれば、放っておくつもりはリョーマには毛頭ないけれど。
一日のスケジュールは綺麗にキャンセルになるだろうことは明白。

つまりは、二人で過ごす時間が増える計算。
手塚は敢えてそこの部分を秘めたけれど。

ひょっとしてそういう事が言いたいのだろうか、この人は、と手塚を盗み見ればいつの間にやら、手にした本に目を落としていた。

「…オレの練習時間が減る…」
「その分、付き合ってやるから心配するな」

手塚の思惑には気付いていない振りでリョーマが呟けば、視線も移さず、手塚の口がそう開く。
素直じゃない。
この上、更に二人の時間を増やすつもりらしい。


どこかの歌みたいに、本音を比喩して隠す。聞き惚れる人間はその裏の心理に得てして気付けるもの。

こんな照れ隠し染みた捻くれ方は一体どこで覚えてきたのだろう。
飽く迄、仕様がないとばかりに手塚の身に熱で茹だる身体をリョーマは寄せたのだった。


















秘められた歌。
か、解釈されにくような…。どきり。
ご、強引…?あれ、話筋を考えてる時はそうでもなかったのにな…。あれ。あれれ…
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