遠い家灯り
「今日は、帰りたくないの」
きゅっと手塚の腰に纏わりついて、リョーマがそう漏らすから、手塚は読みかけの本のページから視線を上げて、リョーマを見下ろした。
何ともだらしない弛緩した姿でベッドにだらりと仰向けに寝転がり、その双眸だけは爛々と瞬いて、万歳の格好の様に上方に上げられた腕が腰に回されている。
「…。帰るも帰らないも、ここはお前の家だろう」
しかも、自室という家屋内でリョーマに割り振られたテリトリー。
手塚はリョーマを見下ろしていた視線をまた手元の本へと落とす。活字の一次元が手塚を迎えた。
そのすぐ傍で、手塚の腰に回した腕は離すこともなくリョーマはひとつ大きく欠伸をした。つい先刻、目を覚ましたばかりだったのだ。
昼寝のつもりが夕寝にまでなって、リョーマの部屋の窓から見える外の世界はもうとっぷりと暗い。
「誘い文句としてはポピュラーでしょ?」
腕に少しばかりの力を込め、支点にして手塚の脇腹へと頬を摺り寄せる。
眼を細めて頬擦りしてくる様は、開いていればくっきりとその存在を強烈に主張する彼のふたつのアーモンドアイと相俟って、見事に猫の仕草に似ている。たしか、猫の頬擦りはマーキングの行為のひとつだった筈だ。
「さっきの」
細めていた眼を不意にぱちりと開く。後引く眠気はもう無いらしい。
「はて、どういう意味かな」
俺にはさっぱりだ、と視線に活字だけを追わせて手塚は淡々とリョーマに返す。
そんな手塚の脇にまだごろごろとリョーマは懐いたまま。そんな猫さながらの可愛らしさの漂う頬を緩めた顔で、腰に回していた腕を徐々に鳩尾、脇へと上げ、一度腕を解き身を起こして、肩を抱く。
「シようって言ってんの。時間としては最適デショ?」
確かに、日も暮れ、辺りは暗い。恋人の時間の始まりとしては普遍的な時間だろう。
肩からリョーマを垂らさせたまま、手塚は手首に嵌めていた腕時計に活字の群れから視線を移し、ああ、と何かに気付いた様に短く声を漏らした。
「そうか、もうこんな時間か。そろそろお暇しよう」
「そうじゃ、なくて……さっ」
腕を回した肩を作用点に、リョーマは後ろへと体重をかけ、ぱたりと本を閉じて腰を浮かせかけた手塚の身諸共にベッドへと背中から倒れ込んだ。
二人分の重みと勢いとを喰らって、ベッドのスプリングが盛大に悲鳴をあげる。
そして、リョーマは手塚の肩から腕を解き、仰臥した手塚の腹の上にぺたりと座り込んで、手塚の持っていた本と掛けていた眼鏡とを取り上げた。
当の手塚は、特別驚いた顔もせず、いつもの表情の無い端正な顔で天井をぼんやりと見詰め上げるだけだ。
「シようって、言ってんの」
つう、と手塚の上に馬乗りになったリョーマは人差し指で手塚の咽喉の線を辿る。試す様な質の悪い笑みを浮かべて。
手を出されるまでは、手塚もまだ強い。逆に言えば、手を出されると途端に弱くなる。
喉仏をなぞられたひとつの線がそこに具現化しているかの様に、手塚には感じられて、弱くではあるが背を何かが駆け抜けていくのを明瞭に覚えた。
「越前…」
そんな内心を隠す様に、呆れた、と言わんばかりのわざとらしい大きい溜息をひとつ吐く。
視力を強奪された朧げな視界の中でリョーマがにっと更に口角を擡げたのが気配でわかる。
――本当に帰宅しようとしていたのに。随分と年下のこの恋人は自分を操作することが巧みだ。
「俺には勧誘よりも我侭の方が利くぞ」
部屋の灯りで逆光気味のリョーマの顔をどこか睨む様な眼で手塚は見上げる。
険を帯びた眼光だとは言え、それはリョーマの顔が見え難い事と、自身の裡に沸き起る享楽の予感とを理性でせめて打ち消そうとする為。
要は照れ隠し。
それすらも、リョーマにはお見通し。手塚の腹上でにっこりと、それはそれは楽しそうに嬉しそうに元気いっぱいに破顔した。
「それじゃ、シたいからさせて」
「仕様がない奴だな…」
今度はふう、と溜息を吐く。手塚なりに、妥協してやった、と云った様子を演出した結果。
そんな手塚の口唇の端から端をねっとりと舐めあげるようにリョーマはキスを施す。キスの終わりにはわざとらしく音を立てて。
そしてそのまま、一旦離れていこうとするリョーマの首に腕を巻き付けて、手塚からリョーマの唇を吸う。
「俺も、今日は帰りたくないと思っていたところだ」
嘘も方便。本当はついさっき、我が家の遠い家灯りを自分の胸の内から消した瞬間に思った。
体のいい言葉はオケーションによっては必ずしも悪いものではない。現に、目の前の恋人はその言葉に笑顔を深くしていた。
遠い家灯り。
が、点く時刻の二人のご様子。
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