私だけの魔法
手塚は部活に出られる時は、非常に時間に生真面目でどの部員よりも早くコートに出ている。
学校の設備としては大層に広い、青学内のハードコートを前にフェンス内で仁王立ち、何をするとでは無しにそこに立っている。
何をその時、考え思っているのかだなんて、彼の表情筋は消極的過ぎて誰にもわからない。
曇り空の今日もそうしている手塚へと、コートの準備をする一年生達に紛れ乍ら菊丸英二は足を進めた。
「ちース、手塚」
声をかけても、にこりともせずに無表情のまま手塚は振り返るだけ。こちらは手まで上げて挨拶しているのに。
それからひとつ頷いて、また前に向き直る。視線の先では、今日の当番である一年生達がネットを取り出したりして部活開始への準備を進めている。
手塚の隣に居並んで、手塚の真似をして顔を顰め、眉間に皺を作りあげて小難しい顔をして、それから腕も組んでみる。足幅は身体を支えやすい様に肩幅まで開いて、仁王立ち。
すぐ傍でごそごそと動く菊丸に、訝しそうに手塚は横目で様子を窺っただけで、特別、何も言葉は無い。
手塚がすれば、周囲には最早何も思われない顰めっ面も菊丸がすると酷く似合わない。妙な違和感があるらしく、目の前を通ってコートに出て行く後輩達がくすくすと笑っている。
「ね、手塚。疲れない?こんな顔ばっかして」
今にも崩れて元の顔に戻ろうとする頬肉をぴっと吊上げて、菊丸は尚も顰めっ面を続ける。
唇を真一文字に結んだまま喋ろうとするせいで、上手く喋れないでいる菊丸とは裏腹に手塚は痛くも痒くもない顔で、唯、一言。
「疲れない」
「…あ、っそ」
よくこんな顔のまま、居られるものだ、と活発な性分の菊丸は思う。
もっと素直に思ったままの感情を顔に出している方が菊丸としては随分と楽だ。
笑ったり怒ったり悲しんだり。どうしてそんな簡単なことを隣のこの男はしないのだろうか。菊丸はいい加減に頬が痙攣を起こしそうになりながらも、唇を引き結んだ堅い顔のまま、手塚を見遣った。
その視線に気付いてなのだろうか、手塚の眼差がこちら側へと向く。菊丸と同様、彼としては自然なお堅い表情のまま。
けれど、その視界は菊丸を飛び越えて、どこか遠くの方向へと。菊丸が視線を遣り続けていた手塚の顔の中で、口が小さく声を漏らすような形に変わった。
一瞬にして、堅い表情が俄に緩んだ気が菊丸にはした。
視線の先に、何か手塚の興味を引くものでも現れたか、と菊丸も手塚の視線に倣って自分の肩から先の向こうに視線を移した。
そちらの方向からは、先程から何人もの部員達がやってきている。部室がある方向だった。
手塚がこういう顔をする時はひとつしかない。3年生に進級してからまだ数カ月だったけれど、菊丸は誰よりも早く手塚の変化に気が付いていた。
案の定に、菊丸の視界の中では、大勢が吐き出される部室の小さい出入り口から白いキャップ帽を手にぶら下げてこちらへと向かって来る少年の姿を見留める。
きっと、同じ方向を向いている手塚の視界の中ではよりその姿は顕著に発見されているのだろうけれど。
もう限界、と菊丸は元の快活な顔へと戻り、頭の後ろで手を組んだ。
「ねー、手塚あー」
呼びかけても返事はない。それは予想の範疇であったから、菊丸はそのまま続ける。
「俺ねえ、魔法使いを知ってるんだよ。今年になってから出会ったんだけどさ、誰だと思う?」
「さあな」
ちっとも考える素振りすら見せず、淡々と手塚は答える。剰りにも体たらくな答え方。
視線は相変わらずに『向こう』。胸の前で組まれていた腕もいつの間にか解かれていて、身体の向きも真正面からどこか『向こう』側へと傾いている。
「呪文もなーんもなしに、魔法かけちゃうんだよ、その魔法使い」
「そうか」
「愛想の無い人間を愛想よくしちゃう魔法をね。しかも、そいつが魔法かける相手はいつも一人。いっつも面白いぐらいに魔法にかかってんの、相手も。魔法かけた途端にほっこり微笑むんだよ。いつも怒ってるみたいな顔してるのに。すごいと思わない?」
きしし、と意地の悪い笑い方で菊丸が声を立てれば、やっと手塚の注意を引けた。咎める様な痛い視線だったけれど。
「何が言いたい?」
菊丸自身としては、歪曲なつもりだったのだけれどどうにもストレートに伝わったらしい。手塚の片眉がぴくりと上がった。
気付かれない為にも、もう少し国語でも頑張ってみないといけないかもしれない。じわりと揶揄う為にも。
「べーつにー?ただ、俺の知ってる魔法使いの話なだけだよ?」
「…そうか」
少しばかりの沈黙。手塚は実に苛立たし気な顔をしていたけれど、そんな隣人に菊丸はしたり顔で微笑むけれど。思わず、品のない小さい笑いが出てしまうというのも仕方が無いというものだろう。
その胸中は悪戯が成功した幼児のそれと酷似していた。
そんな沈黙を破って『向こう』から、タン、タン、と駆けているのか跳ねているのか足音が向かってくる。限りなく近くで、大地を踏み締める音がして、菊丸は視線を下げる。
曇り空で陰影がフラットな白いキャップ。先程まで、かの魔法使いが手にぶら提げていた物だ。
それが不意に上を向く。顔は菊丸には見えない。
「部長」
上を向いた筈のその顔が菊丸の目に映らないというのは、何故ならそれは菊丸の前に居乍らも、隣の手塚の方へと身体を向けていたから。
自分を見上げている顔を、手塚も見下ろす。
「コンニチワ」
「…ああ」
何が、ああ、なのか。自分が声をかけた時は一言として発してもくれなかったくせに。
菊丸は一人拗ねる。恋の盲目さに手痛くやられているのだから、仕方がないとはいえど、この歴然とした対応の差は眼に余る。
返事に加えて、顔をどこか綻ばせすらさせて。自分がそんな隣人の変化に気付いていないとでも思っているのだろうか。もしそう思っているのだとしたらなんと迂闊な。仮に気付いてやっているのだとしたら、なんと肝の座っていることか。
けれど、きっと答えは前者で、また知らぬ間に魔法にかかっているのだ、この男は。
目の前にいる魔法の使い手もそうだ。菊丸側からやってきた癖に、一番に自分の隣にいる手塚へと声をかける。
進行方向から言えば、菊丸に声をかけるのが順当であろうに。
声をかけた以外に呪文は無く、お伽話で聞くような魔法のステッキも持たず、手塚の表情を鮮やかな程に操ってみせる。菊丸では動かせなかったそれを。
むっ、とする気持ちのまま、目の前のその白いキャップ帽を小さく拳で叩いた。コツリとも音のしない程弱く。
「…いきなり、何するんスか、英二先輩」
「何するんスか、じゃなーい!おちびのばかー!」
「ばかって…」
いよいよ訳が解らない、とばかりに魔法使いこと越前リョーマは顔を傾げる。見れば隣に居並ぶ手塚も変な顔をしていた。
二人揃って解せない顔をされて、菊丸はイーッと口の両端を引っ張ってその場から身を翻した。
背後で、まだ二人が頭に疑問符を浮かべてこちらの背を見送っているのが解る。
本当は、揶ってやろうとしたのに。
思わず、羨ましい、と思ってしまった自分の浅はかさに菊丸は走り乍ら内心頭を抱えた。
あんな風に心地良さそうな恋愛をしてみたい、なんて羨望しただなんて、あの魔法使いのせいだ。
私だけの魔法。
越前の存在。似たようなシチュエーションは前からずっと書いてるような…うううう。言い出したらキリがないので止めておきます。わたしの記憶違いということにしておこう、うん…。(自己完結
別に、菊ちゃんに恋愛運が無いと言いたい訳ではなくって…。
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