水のよろこび
決して優しい人ではない。勿論、それは自分も同じ。
風の間をただやって来るのとは違う、鋭いリターンにリョーマは足を駆けさせる。
得意の素早い移動法でもやっと追い付ける様な意地の悪いところへ返される。それがグリーンのハードコートを突き抜けてしまう前に捉えて凪ぎ返すも、あちらは迎え撃つ準備は万端。
空気を切り裂いていくライムイエローの背を見送りつつ、リョーマは小さく舌打った。
向こう端のポーチへと追い付くにはこちらは支度が整っていない。
「タチわる…」
それでも懸命に走ってはみるものの、やはり足りなくてテニスボールはカシャンとフェンスを鳴らしてしまった。
次第に焦って来る想いを抱いたまま、ボールを取りにそちらへと向かえばフェンスを挟んだ背後で手塚はゆっくりと額の汗を拭ってから口を開く。
「あと1ポンイトで追い付くな」
その顔はどこか楽し気で。
今の試合展開は『まだ』リョーマが優勢。序盤からリョーマの調子が頗る良かったことが原因だ。
けれど、中盤辺りから手塚の調子ものり出し、じわりじわりと追い付かれてきて、手塚が述べた様にあと1ポイントでゲームポイントが並ぶ。
ボールをラケットで掬い上げて、リョーマは不機嫌な顔で手塚を振り返った。
追い付かれてきているとは言え、リョーマもゲームが進むにつれ脂が乗って来る性格だ。それでも差が縮められてきているということが手塚の実力を如実に表していた。
「…このまま逃げ切る」
「そうか、それは楽しみだな」
嘲笑うかの様に手塚は意地悪く口角を擡げてみせるものだから、リョーマの中の負けず嫌いの性分に火がつく。
何度かコートにボールを弾ませ、高く放りそれを追う。今日はいつ泣き出してもおかしくはない程の曇天。
きつくグリップを握り込み、力いっぱいにラケットを振り下ろした。ボールが風の合間を鋭く凪いでいく。
それを迎え撃つ手塚の顔は僅かに喜色を残したまま。
小さなあの身体で懸命に抵抗する様が愉悦を誘っていた。誰にも敗北を喫せず、こうして挑んでくるリョーマの様が手塚はひどく好きだ。
その刃がこちらへと向かってくるのは特に興にのせられる。傍でその様を見ているよりも。
あの強がりな眼で、幼い乍らも険しい顔をして、発達途中の筋肉を撓やかに動かして向かって来る様がたまらない。そしてそれに打ち勝てる器であることが楽しい。
リョーマに勝てる器でなければ、きっと彼はああまでも必死の形相にはならないだろうから。
手塚がリターンを返すのと同じくして、上空は臍を曲げ出したらしい。遠くで雷鳴が降っていた。
これは早く決着をつけてしまわないといけない。
そう思いつつも油断は禁物。一瞬の隙を見逃す様な可愛らしい相手ではない。
全く、厄介な相手だと思う。今もラインぎりぎりに返したというのに、ちゃっかり追い付いてリターンを返してきている。
しかし、そこが愉しい。そう来ないと相手になどしてやらない。
どくどくと沸く悦懌の想いが手塚を駆り立てる。
近付いてくる雷鳴と雨風の気配とシンクロする様に鼓動は早くなる。
それでも標的を見誤らない様に緊張して、的確に跳ね返す。
長いラリーは自分にとっては禁忌だというのに、どうもじわじわと虐めるような試すようなコースを選んでしまう。
自分の煽動に食らい付いて来る光景を見るのが悦いのだから。
浅く踏み込んで、前進のステップと合わせて打ち返される。わざわざこちらの身目がけての鋭い一球。ロブを上げてしまうのは仕方の無いこと。
そして彼の足は前進のままに止まらず、そのままポーチへ。決してくるつもりなのだろう。
辿り着いたネットの手前で高く飛び上がり、ラケットの芯が鮮やかにボールを捉えて手塚側のコートへと沈めた。
「…っし!」
ぐ、とリョーマが小さく拳を作るのとほぼ同時、
ザァッ
遂にこちらへとやってきてしまった雨雲が泣き出した。
背後のフェンスへと転がっていったボールを置いてけぼりに、リョーマと手塚はコート隅のアーチへと駆け込んだ。
ざあざあと文字通りに水を差した雨を手塚は睨む。
「…折角いいところで。今日はこれで終いにするか」
「ふぅん?」
悪戯っぽくリョーマが隣で声を上げる。手塚がそちらを見遣れば、その口許は不敵に笑んでいて。
「オレの勝ち逃げ、だ?」
「馬鹿を言え。雨で試合ごとお流れが順当だろう?」
「でも、直前までオレ勝ってたし」
今日はオレの勝ちね。
大粒の汗が貼付いた顔でにんまりと笑ってリョーマはラケットをバッグの中へと滑り込ませる。
「ドローだ」
「部長に初めて勝っちゃった」
食い下がる手塚の発言などさらりと無視して、鼻歌を歌い出しそうな気配でリョーマはバッグから取り出したタオルで汗を拭い出す。
その様が、気に入らない。
だから、リョーマに自分からは勝利を与えてはいけないのだ。
負けて悔しがる顔を自分にだけは見せていて欲しい。そう、他の奴になど、あの顔は見せてやりたくはない。敗北に不貞腐れる年相応のリョーマのあの顔だけは生涯自分のものでなければならない。
誰よりも強くあれ、とリョーマに願う一方で、自分には常にリョーマよりも優位であれ、と呪いをかけ続ける。
「引き分け、だ」
「なに?珍しくあきらめ悪いね」
リョーマに勝ち続けることは、植物が水の喜びを知ることと同じ。手塚にとっての勝利への糧であり、そしてそれ無くしては生きることなど不可能に近い。
だから、何が何でも勝っておかなくてはならなかった。
水のよろこび。
なんか、こう、途中から書きたかった核の部分から実はずれてま、す…。ひぃ。
ええい、でも、手塚の好物は越前さんに勝つことなんだ、という主張にしておこうと思います(妥協案
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