風を紡ぐ
校舎からは少しばかり離れたテニスコートに辿り着いて、ぱちくりと手塚はその切れ長の双眸を瞬かせた。
いつもならば、既に来ている部員達で多少なり賑わっている筈の其所は、隅から隅までシンと静まり返っていて。
そういえば、コートに来るまで手塚と同じ様にコートを目指す部員の影を一人も見なかったことを今更に手塚は不審に思った。そう、たったの一人もいなかったことを。
訝しみながらもフェンスに据え付けられた金網製の扉を押し開けば、静けさで満ちるコートのベンチに一人、よく見慣れた影がぽつんと座していることに気付く。
微風が吹くだけでもさらりと揺れる猫毛の上に乗っている白い片鍔の帽子を隣に置いたラケットの上に乗せ、何とも退屈そうな顔でぼんやりと空を見上げていた。
キィ、と鳴ってしまった扉が閉まっていく音に、その視線が空から手塚へと向かった。
「遅いッスよ」
校庭10周、と戯けた様子で言い乍らキャップをいつも通りにかぶり、こちらへと歩を進めて来る。
どうやら、この奇妙な事態を彼は掌握しているらしい。長い前髪と鍔の隙間から覗く目が楽しそうに笑っていた。手塚は眉間に皺を寄せた。
「越前、他の者はどうした」
「他の人達は今日は全員休み。原因は、えーっと、そうだな、腹が痛いって」
思い出す、というよりは今考えましたとばかりの口上。
「全員、腹痛か?」
「うん、そう」
そんな奇妙な事など有りはしない。昼休みに元気に廊下を駆けている菊丸の姿を見た覚えもある。
見え見えの虚偽の報告に、手塚は一つ溜息を吐き出した。
「まあ、この際そういう些細な事はいい、という事にしておこう」
「ドーモ」
にこりと手塚に笑ってみせて、リョーマは左手に握っていたラケットを肩に乗せ、前に迫り出しているキャップを少しだけ持ち上げた。
そんなリョーマを手塚はじとりと睨む。
「で?」
「ん?」
「何がしたくてこんな真似を?越前」
「あー…主犯はね、オレじゃないですよ」
はてなと手塚は小首を傾げた。てっきり、リョーマが主だって今の事態を画策したのだとばかり思い込んでいたが、本人曰く違うらしい。
目の前の少年は人に罪をなすり付けるような性格ではない。寧ろ、嘘が下手でその口は真実ばかりを喋る。
訳がわからない、という思いを顔面全体で滲ませる手塚にリョーマは苦笑した。
そうそう垂れ下がることのない形の良い眉が心無し下がった。
「英二先輩」
「菊丸?」
「主犯はあの人ッスよ」
手塚の脳裏に昼休みに見かけた明朗快活の塊の後ろ姿が甦る。
同じクラスの人間と何やらきゃいきゃい喋りながら、走ってはいけないことが原則の学校の廊下を派手に駆けていた。
「菊丸が?何の用で」
「偶には二人の時間が必要だよね、って昨日言ってたッス」
その時の光景を思い出したのか、リョーマは俯きがちにくすくすと小さい笑いを漏らした。
「ほら、平日も放課後部活で土日も部活でしょ?だから、オレとアンタが二人で会う時間が無いんだと思ってるんじゃないかな、英二先輩」
「…いらん事を」
手塚にもじんわりと事態の全容が見えてくる。
つまり、今のこのコートの閑散さは菊丸からの気遣いらしい。恐らく、信望も厚い菊丸の呼びかけに3年以下部員全員も話に乗ったのだろう。
思う存分に、二人の時間を過ごせ、と。
「放課後にしても土日にしても、練習後にいつも二人っきりでいるのにね」
「まあ、わざわざ知らせてやってはいないからな…」
知らなくて当然である。けれど、こそこそと隠れて二人の時間を過ごしていた訳でも無いし、誰か一人くらいは気付いているかと思っていたというのに、全員が話に乗ったのだとしたらどうも勘付かれてはいないらしい。
生憎と、手塚のパートナーは少しだけの時間であろうと無駄にはできない性分だというのに。それに対して手塚も少しずつ感化され始めている。
周囲には自分達の実態が知られていないことが良いことなのか悪いことなのか、手塚には判じ兼ねるが、口から出て来るのは本日二度目の呆れの嘆息。
そんな手塚をリョーマはニッと笑った顔のまま見上げ、肩に置いておいたラケットを不意に引き下ろして手塚へと突き付ける。
「ま、折角の先輩のゴコウイなんだから、ありがたく受け取っておこうかなってオレは思ってるけど」
二人きりの時間、という聞く限りは甘い調べの単語も、生まれつき好戦的とすら思える少年の前では別の意義での楽しい時間に変わるらしい。
一試合しよう、と言ってきているのだろう。二つのアーモンドアイがそう言っていた。
宣戦布告染みた格好のリョーマを一瞥し、手塚も羽織っていたジャージから腕を抜いた。
「そうだな。いつもはコートは他の奴らに占領されていることだしな」
人数の割にコート数は限られているのだから、いつもならそれも仕方の無い事。
けれど、今日は複数面あるコートも二人だけのもの。
ネットを張るだけの準備はされている辺り、リョーマは元より有意義に此処を使うつもりだったのだろう。ボールの入ったカートもちんまりとフェンスの傍に据えてある。
「じゃ、二人だけの時間の始まり、ね」
より一層、笑みを深くして手塚に突き付けていたラケットをこつりとコートに立て、フィッチ?と挑戦的な目で見上げてからラケットに回転をかけた。
ゆったりと手塚も顔に笑みを浮かべ、口を開いた。
have a good time!
風を紡ぐ。
風とは則ち突如として手塚に起こる事件…!みたいなノリで。紡いだのはお菊。
こ、この30題べらぼうに難しいデスヨー!!?
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