空のように果てなく
この気持ちの先に、果てなど見えない。
ひと欠片も。
それは酷く些細なことばかりで。
例えば、今みたいに母親の買い物の付き添いでケーキのショーウィンドウを前にしている時でも。
店内に立ちこめる甘い香りに手塚のことを思い出す。
両手に母親の買い物の戦利品を任せられ、ぼんやりと店内に佇んでいるこの時も。
清楚なフリをして、気怠い程に甘い香りのするあの人。年頃の少年らしさなのか、それともただの潔癖性なのか、常に人工の消臭剤で匂いをごまかしているけれど、傍に寄ればふわりと甘い。
食んでみれば、それは一層に猶の事。
ガラスの向こうに陳列されている苺のショートケーキよりも強烈に甘い。
恐らく、そう感じてしまうのは医者も治せないという恋の病のせいなのだろうということは頭では解ってはいるのだけれど味覚と嗅覚は甘いのだと主張してくるのだ。
脳か感覚か、どちらが正しいのか。
繁々とケーキの品定めをする母親の隣でリョーマは小さく溜息を吐く。
きっと、母親がこの後購入したケーキを家で食べて、また思い出すのだ。
これよりもあの人の方がずっと甘い、と。
空のように果てなく、君の事を想う。
それはとてもちっぽけな事で。
例えば、こうして偶の休みに買い貯めておいた本の活字を追う時も。
『猫の様に吊り上がった眼をくるくると』、
『小さな掌』、
『風にたなびく柔らかい髪』、
文中に出て来る言葉の群れに、手塚の脳裏ではリョーマの姿が駆け抜けて行く。只の登場人物の容姿の表現でしかない言葉なのに。
読書に集中できていないな、とその度に手塚は小さく冠りを振って打ち払ってから、また活字を目で追うのだけれど、直ぐにまた別のリョーマに該当するような表現を見つけてしまっては一旦停止がかかる。
この本を休日の肴に選んでしまった自分自身が悪いのか、将又自分にこれほどに姿を喚起させる程に記憶に存在を刷り込んだリョーマが悪いのか。
理不尽だと思いつつも、ここは彼のせいにしておこう。
手にしていた本を栞も挟まずに閉じ、机の端へと置いた。
どうも、今日はこのまま読書を続けられそうにはなかった。頭の中でリョーマの顔ばかりが浮かぶ。
試しに目蓋を下ろしてみればそれは一層に猶の事。
終いには自分の事を呼ぶリョーマの幻聴すら耳に鳴って、手塚は溜息を漏らした。
これはどうやら、本物に会わないと治まりそうにもない。
静かに椅子から腰を上げて、手塚は階下へと向かった。
頭の中ではもう指がきちんと覚えている電話番号を何度も反芻していた。
空のように果てなく、君の事ばかりをいつも想う。
堅い機械音で電話が鳴った。
案の定に手塚を思い起こし乍らフォークを突き刺していたケーキを放って、リョーマは受話器をとった。
「もしもし、越前で…」
「暇だ。付き合え」
この気持ちの果てへの解決の糸口があるのなら御教授頂きたいもの。
空のように果てなく。
身の回りには危険がいっぱい。
越前そばや帝塚山に安直に反応を起こすわたしです。アイツらだってそういうのは日常茶飯事の筈。
30題へ戻る