こどもの歴史
雨期の水無月。『水が無い月』と書くこの季節とは裏腹に外は連日の雨。
しかし、本来の意味はそうではなく。田に水を引く月の意を持つ名。「な」は格助詞「の」に値し、『みなづき』とは『水の月』のこと。
些細な由来はどうあれ、兎にも角にも、そして今日も窓の外は雨だった。
六月の、第三日曜日。
紫煙を燻らせ、雨音がガラス越しに最もよく聞こえる縁側で、南次郎は今日も妻に隠れ、新聞で隠して、秘密の楽しみに耽っていた。
雨だろうと晴れだろうと、この場所は南次郎の指定席となっていた。
「また、そんなもん見てんの?」
ページをひとつ繰ったところで、頭上から冷ややかな声が降ってくるものだから、ゆっくりと南次郎は面を上げた。
これが妻の声だったりしたら、慌て取り繕うところだけれど、幸いにも降って来た声は息子のもの。
「よう」
相手が思春期の少年だということを忘れたわけではない。それでも、南次郎は新聞の間に挟んだ半裸の女性の写真の載る本を隠すこともせず、白い歯をむき出して息子と対した。
呆れた様に相手は溜息を軽く吐く。
呆れられようがなんだろうが、自分の楽しみなのだから止める気は毛頭南次郎には無い。
「どーした少年、流石に雨の日はお父様もテニスの相手はできかねるぞ?」
「…オレだって雨ん中ずぶぬれになってまで親父とテニスなんかしたくない」
愛想の無い顔でリョーマはぶっきらぼうに言い捨てる。
「そうじゃなくて」
はい、とリョーマの手から何かが放られた。
それは小さく弧を描いて、広げたままの南次郎のお楽しみの上に着地した。
黄色の薔薇が一本。
「おいおい。息子からとは言え、ヤローから花なんてもらっても嬉しくないぞ?どうせくれるんならもっといいもん寄越せ」
「…やっぱ、やらなきゃ良かった…………」
ほとほと嫌そうな顔で肩を竦め、返して、と南次郎へと手を差し向けるが、その手にくれてやった花は返らず、代わりにばしんと盛大な音を立てて掌を叩かれた。
「わざわざ返すかっつの」
「…どっちなんだよ…………」
「俺の手中に入ったもんは全部俺のもんなんだよ。わかってねえな、リョーマ」
きしし、と鄙俗しく南次郎は歯を向いて笑い声をたてた。それと対峙するリョーマは嫌な顔を越えてどこか無表情な面構え。
南次郎の笑いが一頻り治まったところで、腹の奥底からの深い溜息を吐き出し、リョーマはくるりと身を翻した。
生憎と、日曜日に暇を持て余している父親に一日中付き合ってやるような甲斐性は持ち合わせていない。これから行く場所もある。
すたすたと廊下を向こうへと歩いていくリョーマの背中から、声が投げられる。
「父の日、だろ?」
「…なんだ。知ってたんだ」
進めていた足をふと止め、口角を吊上げて南次郎を振り返る。人を小馬鹿にしたような顔。
この時は勿論、今日という日の存在をちゃんと知っていたのか、と父親を嘲る笑い。
南次郎は、黄色い薔薇を取り上げ、掲げてみせた。
「その顔はかわいくねえが、お前もよーうやく、俺の有り難みが解ったか」
「ま、ようやく、ね。親父がいなけりゃオレは産まれてないわけだし」
揶揄目的で発した言葉に、殊勝に頷く珍しい息子の姿に、思わず南次郎は目を屡叩かせた。
「勿論、母さんの方が感謝の比重は圧倒的に上だけどね。母さんをパートナーに選んだとこは褒めたげる。それは、その副賞」
南次郎が宙ぶらりんに掴んだままの薔薇に真っ直ぐ伸ばした人差し指を突き付ける。
ああ、やっぱりかわいくない、とその姿に南次郎は思いを改めた。優位染みた顔をしたその顔は南次郎がよくする顔と親子ならではで大層似ているのだけれど、当事者の彼等は気付くことはない。
「まあ、ありがたくもらっといてやらあ。…で?」
「ん?」
リョーマが先程したのと同じ様に、南次郎は指をリョーマに突き付ける。
指先が差すものは、リョーマの左手。もうひとつの黄色い薔薇。けれど、ひとつ、とは言えども南次郎が貰った様に『一本の』薔薇ではなく、『一束の』薔薇。
リョーマが玄関へと不機嫌そうに歩いていった時もリョーマの脇で、さわさわと音を立てて揺れていた。
「そっちは俺にくれないのかよ?」
「なに?欲しいの?さっき、男から貰う花なんて嬉しくないとか言ってなかったっけ?」
揶揄され返される発言に、思わず南次郎は咥えていた煙草のフィルターを噛んだ。
一本と一束というのは、剰りに、差があり過ぎはしないだろうか。
と、いうよりも、
「お前、俺以外に父親はいない筈だろ?」
リョーマが産まれてこの方も産まれる以前も、離婚の経験などは勿論無い。正真正銘、リョーマは南次郎と妻である倫子の間の子供。
父の日に感謝の念を伝えるのは、自分だけの筈だと、南次郎は不可解に顔を歪めるが、その向こうでリョーマはあの不敵な笑みを浮かべた。
「いるよ」
そして、その一言だけを返す。
「お生憎様。オレの今の幸せは二人の父親と母親から成ってるんだよ」
「…ちょっ、待て…!待てリョーマーーーーッッッ!!」
俄に慌て出し、新聞も助平な本も縁側に捨て置いて、南次郎が立ち上がるも、リョーマは再度身を翻して、颯々と玄関の扉まで行き着き、外へと出て行った。
昔、一組の男女がそれぞれ出会った時、その時、歴史は動き出した。
「あら、リョーマさんお出かけですか?」
「うん、ちょっと部長の家行って来る」
「リョーマーーーーーーーッ!!待てこらっ!」
「…菜々子さん、親父、引き止めといてもらっていい?」
こどもたちの歴史。
パパはリョマさんに放任なフリして実は誰よりも過保護だったりするに違いない…!
倫子ママに匹敵するぐらいの素敵嫁なので、容認して下さい、お父様。
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