雨の向こうに
















雨は天の恵みと言うけれど。


ポッ  ポッ  ポツ リ

当番制の教室掃除の手をふと止めて、リョーマは黒い雲の大群を見上げた。
朝からの雨のせいで、教室の窓は閉め切られ続け幾つもの水滴が窓ガラスに斑を作っていた。水滴とガラス越しに見遣れば歪に変形した外の世界が広がっている。
まあるく歪曲した雨中の世界。

ザァ   ザザザッ  ザアー

空が泣いていると使い古された言葉で言い回されるけれど。

空には涙を拭ってくれるような優しい友達も、愛してくれる恋人もいないのだろうか。
太陽に雲に月に星。空には時間毎に色々浮かんでいるというのに。


ザアザアザア――……
校庭に作られた水溜まりの上には断続的に続く波紋。
空気中には降り注ぐ雨粒が線になって向こうが見えないほどのブラインド。
上を見れば雨雲。どこを見ても雨、雨、雨。雨ばかり。

「…今日、部活中止、かな。やっぱ」
「今日は体育館でトレーニングらしいぜっ」

箒の上で頬杖をついて、つまらなさそうに漏らしたリョーマの独り言に傍を通りかかった堀尾が声をかけていった。
横目でそんな同級生を盗み見て、あ、そう、とだけぶっきらぼうに返す。嫌いな相手ではないけれど、言葉のキャッチボールを楽しむような相手ではないことだし。

「ラケット握れないとつまんない…」

あの人の影響ですっかりテニス馬鹿になりつつある自分につい溜息が零れる。良い傾向なのか悪い傾向なのか判断はつかないけれど、取り敢えず、彼の術中には見事すぎる程に嵌まっているらしいことは確か。

「オレをそそのかすなんていい根性してる…。ねえ、堀尾」

声は伝わる距離にまだいた同級生を呼べば、こちらを振り返る。

「なんで中止なの?」
「は?」
「部活。雨降ったら中止ってなんで」
「あのなあ、越前…、真面目な顔して何言ってんだよ。雨降ってる中やったら濡れるからに決まってるじゃねーか」
「コートもボールもオレ達も?それのどこがダメなの。やればいいじゃん。そんなの気にしないでさ」

表情をちらりとも変えず、淡々と言い告げてくるリョーマに、堀尾は顔を顰めた。生憎と、堀尾の常識はリョーマには納得させるだけの力を持たないらしい。彼の語彙力の程度も関わっていたかもしれないけれど。

「お前なあ…そんなに雨ん中やりたいんだったら部長に直談判でもしてりゃあいいだろー?」
「別に雨の中でやりたいってワケじゃないんだけど…、ま、たしかにそうかもね」
「たしかに?」
「部長に直接言ってくる」

後、任せた、と手にしていた箒を堀尾へと投げ渡し、颯々と教室を出ていった。
残された堀尾には同じ班の女子生徒から詰る声が飛んだ。





「部長」

ひょこりと顔を覗かせたのは視聴覚室。手塚が何週目にはどこの掃除当番か、という些細なデータぐらいならリョーマの頭には軽くインプットされている。教室から一路、此処を目指して辿り着いた。
横滑りのドアから顔を出した突然の客に、ドアの至近距離に居た手塚のクラスメートは驚いた様に何度か目を屡叩いた。
つい目が合ってしまったその生徒に気まずく思い乍らもリョーマは小さく会釈。

「すいません、手塚先輩いますか?」
「あ、ああ…。おーい、手塚ぁー、お客さーん」

依りにも依って部屋の隅、ドアからは最も遠い位置に居た手塚に男子生徒の声が向かい、机を雑巾で磨拭していたいつものあの無表情が顔を上げた。
呼ばれた声の先にリョーマの姿を見付け、リョーマと真っ先に対峙した同級生と同じ様に手塚も目を屡叩かせた。怪訝な顔。
そんな手塚にリョーマはまたも先程同様に会釈をひとつ。

外は相変わらずの雨。










「お前…今は掃除の時間だろう」
「うん。オレ教室掃除」
「それがどうして今ここに居るんだ?」
「後は堀尾がやってくれてるよ」

最後のゴミ捨てを自分が行くから、と班員達に条件を提示してから作業を一時抜けた手塚とリョーマは廊下に佇んでいた。壁に寄り掛って雨が降りしきる向かいの窓を眺めつつ。

「で?わざわざ生徒の義務を抜け出てきて、何の用だ?」
「部活。今日やろうよ」

リョーマの言葉に手塚は首を傾げる。

「やるぞ?」
「体育館でトレーニングメニューでしょ?堀尾に聞いたよ」
「なんだ。知っているんじゃないか」
「そうじゃなくて。テニス、しようよ」
「雨が降っているだろう。無理だ」

返ってきた手塚の事務的にすら思える平坦な声音にリョーマは真っ直ぐ前を向かせていた目線を上げた。見上げた先には腕を組んだまま窓の外の雨を睨むように隣に並ぶ手塚の端正な顔があった。

「なんで?」
「ん?」
「なんで雨だと部活無理なの。いいじゃん、やろうよ」

聞き分けの無い乳幼児みたいにリョーマは俄に顔を顰めた。
同級生と全く同じ言葉を吐く手塚に少しずつ苛立ちが募り始めていた。誰のせいでこんなに真面目なスポーツ少年になったと思っているのか。

アンタのせいなのに。

見上げる目線で睨めつければそれに気付いた手塚の視線が下りてきて、困った様に一度逃げた。
ゆっくりと手塚は組んでいた腕を解いた。

「いいか、越前。まず大前提として、テニスは屋外競技だ」

屋内コートでやる場合もあるがな、と手塚は言い加え、リョーマは相槌を返した。

「雨でコートが濡れると足をとられる。そうするとどうなるかは解るな?」
「ボールに追い付けなくなる?」
「それもあるが、足をとられることによって起こる転倒なども予想できる。次にボールだな。ボールが濡れるとどうなる?」

まるで小学校の先生と生徒だな、と手塚の言葉を聞きつつ、リョーマは「重くなる」と即座に返答した。

「水を吸ったボールは確かに重くなるな。だが、それだけではなく、ボールはその次の日も使うだろう?翌日までに完全に乾くという確実な保証はないだろう?」
「濡れたまま使えばいいじゃない」
「では、想像してみろ。まだ濡れたまま、もしくは半乾きのボールを手に持って、」

言われるままにリョーマは想像を巡らせる。
昨日の雨が嘘の様にからりと晴れた青空。にぎわう部員達の声。キャリーに入ったテニスボールを取り出す。
まだ乾いていないそれは、ぐしゅり、と掴んだ瞬間に奇妙に鳴いた。
手には昨日の雨だけではなくコートを跳ねた際に砂や泥も吸い込んだ燻んだライムイエローの球体。何とも不快感を伴う湿り気を手にした感触―――。

リョーマは眉を顰めた。

「…気持ち悪そう」
「そうだろう?それから、雨中をプレーする俺達の身だな」

ボールの案件で、早くも今日のテニスは諦めても良いかもしれない、と思い始めていたリョーマに手塚は尚も言い立てる。
自分から何故?と問い質してしまった手前、理路整然と回答を寄越してくれている手塚を止める訳にもいかず、リョーマはそのままにすることにした。

止まぬ、外の雨。

「身体が濡れれば、当然、体温が下がる。風邪を引く恐れもあるな」
「アンタが風邪引いたら見舞いにいったげるからそこはあんまり心配しなくていいよ」

冗談めかしてそう返してくるリョーマを、手塚は片眉を上げた揶揄する顔で見下ろした。

「部活をするとなると、参加するのは全員だぞ?その全員の見舞いに行くつもりか?お前は」

雨に打たれたからと、全員が揃って風邪を引くのは難しい確率だとは思うが、こういう時の例えは大袈裟な程有効なものだ。
言葉では表現しにくい、何とも嫌そうな顔をしてリョーマが思惑通りに首を横に振ったのを見て、手塚は満足そうに口端を緩めた。

「最初のコートにしたってそうだ。部員が怪我をしたら雨だから中止と言った俺を諌めて決行したお前に責任は行くぞ?」
「…わかったよ」

怪我をした部員にお前のせいだと罵られることはリョーマからすれば大したことではないけれど、方々から言われるその状況があまり芳しくない。ひとつひとつに受け答えすることの方が面倒くさい。

リョーマは、降参、とばかりに肩を竦めてみせた。

「今日の部活は体育館でトレーニングでいいよ、もう」
「噛み付いてくるかと思ったが……、素直な事は結構だな」

その満足そうな顔が憎たらしい。負けることは何よりも敬遠することなのだ。勝ち誇る顔は正直、癪に障る。

負けそうな状況ならば、別の何かで打破してやれば良い。

ぐ、と手塚の胸倉を掴み、腕の力にものを言わせて引き寄せて、颯々と唇を攫う。
一方的に閉じていた目蓋の向こう側ではきっと焦燥した手塚の顔がある。開いた身長差を埋める為に精一杯に伸ばした足の裏が引き攣る様に少し痛むけれど。

オレの勝ち

内心で一人ごちて、容易く手を離してやる。前後に人の気配は無かったけれど、いつ誰が来るとは知れない校舎の中でもあることだし。

タン、と一歩踏み切って、手塚に踵を返す。廊下の先に駆け出す前に、誘拐に遭った唇を釈然としない顔で撫添りつつ、こちらの後ろ姿を見送ってくれる恋人を俄に振り返る。

「部活終わったら、うち来てよ」

不思議そうに手塚の眉間に皺が寄る。よくするその仕草は出逢ってから本当によく見る。
常日頃、そんなに不可解な事を彼に告げているつもりはないのだけれど。

「テニスしよ。雨降ってても、うちの家なら皆に迷惑かけないでしょ?」
「…俺はその『皆』には含まれないのか」
「入る訳ないでしょ。愉快な仲間達とアンタは別格だから」

そのくらいは手塚本人も気付いていそうだけれど。

「ボールが濡れても、明日オレが部活で満足して我慢すればいいし、コートで滑って怪我したり雨で濡れて風邪引いたらオレが看病してあげるし」

ノープレブレムだよ。
ね?と手塚の小憎たらしい程に男振りの顔をした恋人は少し距離を置いた廊下の先で、破顔して首を可愛らしく首を傾げてくる。

ああ、もう、その顔に、
勝てた、試しが、無い。


流される自分に大して納得はしていない憮然とした顔で、それでも、矢張り、手塚は首を縦に振ってしまった。
そんな手塚に心底、快足的に微笑んで、リョーマは自分の教室迄続く廊下を駆け出した。

「遊んだげるよ」

廊下の角を曲がりきる前に手塚へとそう言い放ってから。




















雨の向こうに。
雨の向こうにリョ塚サシ勝負。手塚の腕と肩が泣き言を上げない程度に。
どうも、この二人がテニスると始めは遊びのつもりでやってもいつの間にか本気勝負になっていそうで怖いです。ぶるるっ

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