周流邂逅
















本日も天気は良好。良好どころか、少し暑いくらいで。目覚まし時計に命じておいた時間よりも少し遅れてリョーマは目を覚ました。

被ったブランケットの上で同じように目を覚ました愛猫が挨拶でもするかのようにひとつ鳴き声をあげた。



そこへ、タンタン、と2階にあるこの部屋まで続く階段を上る足音。その音を、クローゼットを開き乍らリョーマは聞いた。

「リョーマ、今日はいつもより朝の練習早い時間だって言ってなかった?まだゆっくりしてて大丈夫なの?」

ドアを開いて、ひょこりと顔を覗かせた母親の台詞に、リョーマは寝間着のボタンを緩めていた手をふと止めた。
そして、甦るは過日の大石副部長の声。

越前、そろそろ大会も近いし、朝練の時間を早めようか。

そして、それに適当に相槌を返して、結論されたことも思い出した。

(ええと…たしか、今日からは………)

嫌な胸騒ぎを覚えつつ、時計を据えているベッドヘットを振り返れば、目に飛び込んでくるのは大石が取り決めた朝練開始の時間の10分前。
一瞬にして、リョーマの頬はぴきりと音を立てて引き攣った。

「リョーマ?」

息子の顔色が変わったのを見遣って、案じ顔で倫子が名を呼ぶのを契機に、リョーマは物凄いスピードでボタンを外し、寝間着をかなぐり捨てて学生服を身に纏い出した。
やれやれ、と言った風情で倫子はドアの前で溜息。

「お弁当、持っていくの忘れないようにしなさいね」
「朝ご飯も今のうちに作っといて!おにぎりとかでいいから!」
「はいはい……。はやくしなさいよ」
「わかってるよ!」

来年には高校にあがる、成長した筈の息子は所詮身体ばかりが大きくなったのだろうか、と、倫子はつい憂いた。














「悪い…遅れた」
「朝練開始から10分か…越前としては早い方かな?」

身体全体を激しく上下させ、髪も息せき切って駆けてきたせいで乱れたまま、コートの扉を開いたリョーマを、大石は苦々しい顔で迎えた。

「部長としての自覚を持ってくれよ。他の部員に示しがつかない」
「だから、悪かったて言ってるじゃん…」
「はいはい。…越前も、少しは手塚を見習ってくれればなあ」

俺もこんなにヒヤヒヤすることはないのになあ、と愚痴を本人に向かって漏らす。
そんな大石の言葉の中の『手塚』の部分にだけ、リョーマは小さく反応を見せ、彼の姿を発見するべく、辺りを頻りに見回した。

「手塚は開始の15分前にはちゃんと来て……――って、越前、聞いてるのか?」
「あー、うん…聞いてる聞いてる。で、その手塚は?どこ?」

コート中を見回しても、どうにも姿が見えない。それでも、尚もリョーマは隅々まで眼を凝らす。
ああ、もう、お前は本当に…、と溜息を多量に含んだ大石の声が視界の外で聞こえた。

「手塚には、ちょっと竜崎先生のところまでお遣いに行ってもらってるんだ。お前が来ないから」
「…大石が行けば良かったのに」
「現場監督と責任者が居なくなるだろ?…お前が来ないから」

刺々しく、リョーマの非を責める大石に、リョーマはうんざり、と顔を顰めた。

「大石って絶対、口やかましいジイさんになる気がするよ」
「俺も、何も言うことがなければ大人しく黙ってるさ。ほら、練習始めるぞ」

メニューは乾に聞いてくれ、と大石は乾が立つベンチの辺りに向かって指を指し示すが、リョーマはくるりと踵を返した。
爪先は、少し離れた校舎の方へ。

「…おい、越前?」
「ちょっとウォーミングアップがてらに走ってくる」
「家からここまで走って来て、身体はもうあったまってるだろ……って、越前!!」

大石が叫ぶも空しく、リョーマは颯々と駆け出した。
この春からは、生憎と生真面目に部活をする為だけに来ているのではないのだから。好きな人の顔ぐらい、朝っぱらから一目だけでも見ないとやる気は起きそうにもない。

部の長としては、クレームが飛んで来そうなことを思い浮かべつつ、リョーマは足も軽やかに、手塚が向かったという職員室がある校舎へと向かった。







ぺこり、とまだ人の少ない職員室へと扉の手前で会釈をしてから、手塚はその場を辞した。早朝という時間帯だけあって、登校しているような生徒は居らず、ただの閑散の度合いを優に越えている。
無人の朝の校舎。
その廊下の窓から注いでくる朝日にどこか見蕩れる様に眺め乍ら、手塚は昇降口へと辿り着いた。

竜崎への用事は済んだ。お土産とばかりに手塚の手に握られているのは、顧問から部長である越前リョーマ宛の数枚の紙片。
ざっと目を通した限りでは、予算がどうだとか部長会議がどうだとか、まだ1年生である手塚には大して関わりの無い事柄ばかり。それを握ったままで、上履きからテニスシューズへと履き替え、東から降り注ぐ太陽の光で満たされた外界へと手塚は足を進めた。

「…あ」

ふと、漏れた声。
丁度、昇降口を出たところで、手の中の書類の宛先の人物の影が見えたからだった。

「ぶちょ‥‥‥‥」

タイミングの剰りの幸運さに、咄嗟に名を呼ぼうとしたところで手塚はふと言葉を止めた。

少し先に見える、リョーマはただ佇んでいただけではなく、艶やかな黒髪を緩やかな風に遊ばせる女性と、何か話をしていた。
手塚が見た事など全く無い、女。

手塚が立つ位置からは、その女性の後ろ姿しか見えないが、すらりと伸びた手足にしゃんと張った背筋。遠目にも上品そうで、きっと美人であろう雰囲気が解る。
その手塚が顔を知らぬ女性と、何やらリョーマは懇意そうに言葉を交わしているのがレンズ越しの手塚の目に痛いくらいに焼き付いて。

目を痛ませた朝日の中の光景は、そのまま視神経から伝達されるように、幼い手塚の心臓にちくりと針を刺した。

その痛みに、はた、と手塚は我に返る。
手塚自身も無意識に感じ取った痛み。一体、なんなんだろうか、と自分の胸を押さえてみるも、外傷は勿論に無く。
両手と少しで足りる年数ばかりの人生でも初めての感覚に、訝しんでいれば、次第に先程の痛みは澱の様に芳しくない感覚で胸の底に溜り出した。

手塚は、妙に不機嫌になっていく自分を覚えた。









「リョーマさん、急いでいるのは解ります。解りますけど、折角おばさまが作って下さったお弁当を忘れるのだけはいけませんよ」
「だから、ごめんって。そんなに怒らないでよ、菜々子さん」

今日はやけに怒られる日だと、内心辟易しつつ、リョーマは差し出されていた昼食の包みを菜々子から受け取った。
従姉である彼女は、それでもどこか肩を聳やかしていたけれど。

「ちゃんと、帰ったらおばさまにごめんなさいして下さいね?」
「うん、わかってるわかってる。わざわざ持ってきてくれてありがとう」

幼い子供に言い聞かせる様な口調も、正直、リョーマの気分を遣る瀬無くさせるけれど、足労をさせてしまった菜々子に申し訳ない気持ちもきちんとあるから、リョーマは礼を述べた。
意図せずに黄色い声が飛ぶ、男振りのある微かな笑顔を添えつつ。

怒っていた菜々子の肩はその顔に、漸く平静を取り戻した。

「…リョーマさんはそういうところはおじさまとは似ても似つかないんだから」

自分よりもずっと年下の割に、酷く色男染みているその顔付きは血縁関係に有り乍らも、菜々子にどきりとさせる力がある。
脂下がった顔がお得意の父親では、どうもこの手の顔は今一、ピンと来ない。南次郎が血気盛んなあの頃ならば、また違ったのかもしれないけれど。

その表情がまた無意識の産物なのだから、余計に質が悪い。
伊達男の南次郎ならば、意識的にやってみせるだろう。

「親父なんかと比べないでよ」
「そういうところはそっくりなのに…。リョーマさん、モテるでしょう?」
「モテ…んのかな?よく知らない。あんま興味ないし」

それにちゃんと好きな子がいるから、とリョーマは付け加えた。

「あら、いつの間に」
「今年になってから……――ん?」

突然の告白に菜々子が目を丸めていれば、リョーマはふと視線を感じ、体の向きはそのままに、視線を少しばかり遠くへと投げた。

「手塚?」

そこには、昇降口の入り口で立ったままの、いつもよりも目付きの宜しくない手塚の姿があった。
リョーマの視線が動いたのを真正面に立っていた菜々子も感じ、ふと振り返る。

「お知り合い?リョーマさん?」
「ん。部活の後輩。って言うか、あの子が、そう」

に、と口角を上げてみせるリョーマに、まあ、と小さく菜々子は感嘆の声を挙げた。
そして、手塚に会釈をしつつ、その目をまあるくさせながら、手塚の様子を窺うと、リョーマに向き直り、

「リョーマさん、いいご趣味なのね」

と、耳打った。
それに対して、まあね、と眩しいくらいにリョーマは破顔一笑してみせる。

「今度、是非おうちへ呼んでくださいね」
「手塚がうんって言えばいつでもね」
「楽しみにしてますわ。それじゃ、お邪魔しちゃいけませんし、そろそろ帰りますね」

ふふ、と何やら意味深長に笑い乍ら、菜々子はその場から正門へと去った。
後に残されるは、距離をお互い置きつつも、リョーマと手塚。

歩を進めて、リョーマは距離を詰めた。
それを迎える手塚の眉間は顰められたまま。

「おはよ、手塚」
「…お早う御座います」

顔を綻ばせたリョーマとは対照的に、手塚は酷く臍を曲げている様子で。
朝からまた珍しい、とリョーマはそんな手塚に一握の関心を惹かれた。思えば、迷惑そうに眉を顰める顔は見たことはあるけれど、憤然としているこんな手塚の表情は初めて見るかもしれない。
不貞腐れているのではなく、苛々した気を漲らせる幼い身体。

そんな憮然たる手塚を眺め続けるにつれ、リョーマの目はきらきらと輝き始めていた。





初めて覚えた胸騒ぎに『嫉妬』という名を手塚が自ら冠する日は、またこれより先のこと。


















周流邂逅。
40604ヒットありがとうございました!詩音さんからリクを頂いて、そしてそのまま詩音さんへー。
年齢逆設定+越前家の人、ということでしたので、菜々子さんです。デフォルメ喋りってこんな感じですよ、ね…??。
周流して邂逅するは菜々子さんと初めてのやきもちと。

40604hit、ありがとうございましたーっ!
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