AN OVERHEAD THROW
腕力を鍛えたい。
今やマネージャーと貸した先月のランキング戦敗退者の乾にある日そう告げたのは彼から白星を取ったリョーマだった。
彼に黒星を付けられた当の乾は、ずれた訳でもない真四角のいつもの眼鏡を思わせぶりに押し上げた。
「越前……パワーアップをただ計ろうというのなら、俺も協力させてもらうよ。君を育てあげることはうちの部に取っても有益なことだからね」
ただ……。
そう言い淀んで、乾はリョーマの目線に合わせる様に身を屈め、そして口元に手を宛てがって、内緒話でもするかの様に囁いた。
「他目的の為の筋力アップなら、ちょっと考えものだね」
「どういう意味ッスか?」
乾の言葉に、内心ギクリとし乍らも、お得意のポーカーフェイスを保ちつつ怪訝に表情を変える。
「俺が解らないとでも思ってるのかい?そんな、下心アリアリの顔で腕力をーなんて言ってきて」
「……………乾先輩、眼鏡いらないんじゃないです?色々見えてるんじゃないスか」
「いやいや、コレがあるから見えている様なものさ。………で?」
「で??」
「誰を押し倒したくて筋力を鍛えたいんだい?俺の予想としては――――」
身を屈めたまま、乾は辺りに視線を巡らす。
リョーマと乾が居るのは練習用のコートの一角。視線で人物を探れば、ほぼ全員が見渡せた。
大石、菊丸、不二、河村。それから桃城に荒井に林と池田。最後にリョーマとも懇意の3人組と、海堂。最後に、ベンチで腰掛けてコート内を監督している手塚。
乾の視線はその手塚のところで止まり、リョーマを窺った。
「手塚、かな」
「……ホント、裸眼でいいんじゃないスか?何なら今すぐ叩き割って差し上げますけど?」
にこり、と可憐に笑ってみせて、リョーマは握った拳を掲げてみせる。いやいや、と苦笑し乍ら乾は屈めていた身を起こした。
この身長差をキープすればその拳は食らわずに済む。己の身長がこの高さだということ、そしてリョーマの身長がその高さだということを、乾は心底幸運なことだと思った。
「それにしても………手塚か」
ふむ、と考えるように顎に手をやって乾はもう一度手塚を見る。
一見すれば、伸び過ぎた身長に体重が追い付かず、大層に痩躯ではある。腕も足も、そして腰も同年代の女子よりもずっと細いし、体の奥行きも薄い。
確かに、あんな体付きでは、腕に物を言わせれば、強引に手篭めにできるとリョーマに思わせても詮方ないだろう。
「越前…。強姦は犯罪だぞ?」
「知ってますよ」
「男として最低行為だぞ?」
「解ってますって」
「解っているのにやるつもりなのか?」
「あくまで、”万が一”用ですって」
「万が一、君が堪えきれなくなった時用、か。青いねえ」
「………まだ中一なんで」
揶揄い顔で見下ろしてきた乾を、頬を引き攣り笑わせてリョーマは見上げる。
リョーマを見下ろしたまま、最近の若い子は恐いねえ、更にそう揶揄って乾は再度手塚を眺めた。
「しかし、相手が悪いな」
「は?」
「手塚を、ただ背が高いだけで腕っぷしの無さそうな人間だというのは勘違いも甚だしい、ということ。思い知らせてやろうか?ちょっとここで見てるといいよ」
それだけを一息に告げると、相手からの返事も待たず、乾はリョーマの脇を擦り抜けて一直線に手塚へと向かった。
広くはあるが、所詮、一介の私立のテニスコートのこと、ものの数秒で乾は手塚が腰掛けるベンチの脇に辿り着いた。
「手塚」
そう呼びかければ、手塚はこちらを振り返る動きを見せる。が、完全にこちらを捉える前に、乾は手塚の肩に手を掛けて、力任せに押し遣った。
ぐらり、と隙を突かれた手塚の体は後方へと倒れ込む動きを見せた。
「手塚…っ!?」
「手塚!」
「手塚っ」
「手塚部長っ」
「…手塚部長……!?」
各々、銘々、手塚の危機を悟って振り返り、声を荒げる。
見ていろと云われたリョーマもその一人。突然何をするのか、と、彼としては珍しくヒステリックに叫んだ。
「部長っ!!」
しかし、リョーマが叫んだ次の瞬間、今にも乾に組み敷かれんとしていた手塚の双眸が鋭く光ったかと思うと、彼の左足が乾の下腹部目がけて伸び、足裏で下から押し上げた。造作も無く、体の上に居た乾はぐるりと前転する要領で、ベンチの向こう側へと墜落する。
一瞬の出来事に、その場は水を打った様に静まり返る中、乾が背中から落ちるダァンと言った音が沈黙の中を駆け抜けて行った。その音を聞き乍ら、リョーマもぽかんと口を閉じる事を忘れたまま、事態の次の動きを待った。
「………………………………」
その静けさの中、ベンチに左足を立てて仰臥していた手塚はゆったりと身を起こし、さも一仕事終えた、とばかりに、手の平をパンパンと叩き払うと、自分の後方へと伸した乾を緩慢な動作で振り返った。そして、忌ま忌ましそうに目を細める。
「乾…了見を聞こうか?」
「いやあ、見事な巴投げで。手塚」
「俺の腕前を知らない訳ではなかろう?」
「勿論、知っているさ。早まろうとしていた若人を止めてやる為に、仕様がなく犠牲になってやっただけさ」
「? 頭を強く打ち過ぎたか?」
「いや、ちゃんと受け身は取ったよ」
それでも、いてて、と顔を顰めつつ、乾は体を起こす。訝しげに手塚が見下ろしてくる中、そっと視線を動かして、乾はリョーマにウインクしてみせた。
「……………………そういう、こと、ね」
リョーマの背中では、纏ったブルーのユニフォームで隠れつつも冷や汗が一筋。
その後、正攻法で手塚を落としたある日に、リョーマは手塚の祖父が警察で柔道の教官をしている話を聞いた。
AN OVERHEAD THROW
そのままズバリ、巴投げ。
51115hit、ありがとうございました!泉さんへ。
othersへ戻る