穿孔行為
手塚がコートに現れた途端、それまでしていた桃城との雑談を酷く中途半端なまま強制終了し、困惑した顔をするひとつ下の後輩を放ってふたつ下の後輩へと笑顔で近付いて行った。
その一部始終を遠くから眺めていた菊丸は、隣で靴紐を直していた不二にぽつりと話しかけた。
「越前の様子を見てたらさー…」
「うん」
「すっごい懐かしいフレーズを思い出すわけね、俺」
「へえ、どんな?」
相槌を返しつつも、不二は視線は上げない。どうも、先程から何度結び直しても上手く結び目が作れない。
そんな不二を菊丸も見ず、視線の先で遂に手塚の上から、わっと伸しかかってはごろごろと猫の如く懐き出した越前リョーマを見遣っていた。
久々のフレーズを喚起させるその人物の言動。
「首ったけ」
「ああ、すごい久しぶりに聞いた。それ」
溜息混じりに言った菊丸に、手を止めていつもの花開いた笑顔で不二は顔を上げた。
あのさあ、お前って下手なんじゃないの?
まだ手塚に絡まったままのリョーマを視線の高さ分見上げて、菊丸は何やら歪な表情で言った。
言葉を投げられて、背後から抱きついた手塚の髪に顎先を埋め乍らリョーマも怪訝そうに表情を曇らせた。
「下手って、なにが?」
「レンアイのカケヒキ。基本中の基本がなってないと思うワケ、よ」
「基本?」
尋ね返すリョーマに、菊丸は「そ」と大きく頷いてみせる。
そして、自分は大石を『陥落させた』時は忠実にその基本に基づいてみたことを何故か得意げに語った。
彼が言うには、「押して、押して、押し続けたら、少しだけ引く」。そうすれば、身を引いた僅か分、そこに隙間が出来る。それへと落っこちてしまった途端に恋が成就するのだと、菊丸は加えて言った。
「それが、お前ときたらどうよ?」
目許を、嘲笑うかの様に少しだけ半月形にして菊丸はリョーマを見た。それからゆっくりとリョーマの顎の下で大人しく抱き込まれている手塚を指差した。
「押して押して押して押して押しまくるしかしないでさあ。片思い大往生もいいとこなんでないの?」
「別にそれでいいんじゃないの?オレは楽しいし」
「わーかってないなー。いつものお前じゃないけど、そんなの、まーだまだ、だよ」
チッチ、と得意顔の前で菊丸は手塚に突き付けたばかりの人差し指を左右に小さく振ってみせた。
頭の上で言葉の応酬が行われている様を、手塚はただぼんやりと見上げる。どう口を挟んだものか、その余地が無かった。
ただ、その時の彼は早く部活始まりの号令はまだかなあと、ラケットを握った手をぶらりと垂らしたままで思うだけだった。
大石が掃除当番のせいでリョーマを律する人間がこの場に一人としていなかった。
「恋ってのは一人でしてても意味ないでしょ?二人でしなきゃ」
それより多くても少なくても上手くいかない。それが鉄則なのだと、自信満々に菊丸が説けば、ふぅん、とリョーマは小さく鼻を鳴らし、それで?と言葉の先を促した。
「二人で恋する為に、ちゃんと好きな相手を罠にかけなくちゃね。落とし穴の作り方くらい、知らないようじゃ一人前のオトコノコじゃないよ」
「押すのやめろってこと?遠回しな物の言い方は嫌いなんだけど」
球速150km台ぐらいの曲がることが不可能なボールめいた、直球的な言葉の方が理解し易いし、好みだ。
そんなリョーマが好むタイプの物言いをしない菊丸を、さも疎ましいとばかり、リョーマは顔を顰めた。
「そ。引いてみろっての。たまには」
「でも、それ、つまんなくない?」
「甘い。甘いね。そんな自己中心的な恋愛の果てには何もないのだよ、越前坊や」
ハン、と少しばかり顎を刳り、先程からの半眼を更に細めて、大々的に菊丸はリョーマを嘲け笑った。
そして、唇の真ん中に人差し指をそっと宛てがい、ゆったりと口を開く。
その時も、手塚はまだかなあ、と部活開始ばかりを思っていた。
「越前、手塚が欲しくないの?」
「欲しい!」
即答、と表現するに相応しい、リョーマの反応速度。
思惑通りの反応に、菊丸はにんまりとほくそ笑み、突然の頭上からの大声に、それまでぼんやりとしていた手塚はびくりと肩を跳ねさせて黒目だけを上に向けた。
「じゃあ、引いてみな?」
「…………………。…手塚」
それまで密着させていた体を緩りと解き、手塚の身をくるりと回して対面の位置を取らせる。
事態をまるで把握していなかった手塚は、ただ戸惑い乍ら、目の奥を真剣な顔で覗き込んでくるリョーマの顔を見返した。
「今日はオレ、そっけないから、大いに気にしろ」
「は………はぁ…」
「いつも構ってくるばっかりのオレが今日はお前なんて相手にしないからな」
「はあ…」
はあ、と言い躊躇うことしか手塚にはできない。
わざわざ宣言して意図的に距離を置く人間なんて、手塚はこの世に生まれて初めて見た。
そんな、戸惑うばかりの手塚の肩を、パンとひとつ強く叩いてからリョーマは踵を返す。その音は、聞きように依ってはリングのゴングに聞こえないこともない。
さあゲームの始まり、と言わんばかり。
どうしたものかな、と途方に暮れ始め、その場にぽつりと残された手塚は佇む。
その後ろで、菊丸がそれはそれは楽しそうに、キヒッと奇妙な笑い声をひとつ立てた。
「これはまた…………」
何か面白そうな出来事が起こっていたと見える。
大石同様、些細な用事で遅れてやってきた乾がにんまりと笑い乍ら言った。いつもは引っ切り無しにくっついている筈のリョーマに搦めとられていない手塚の隣で。
手塚の至近距離という定位置に居ない本日の越前リョーマは奥のコートで不二相手に熾烈な戦いをしていた。様子を伺う限り、刃を交えれば必ず勝利を掴む彼としては珍しい、劣勢の戦況。
「越前といえば、」
悠然とした動作で、乾は右隣の手塚を見下ろした。バツの悪そうな珍しい彼の表情とぶつかる。
「手塚、だね」
「……どういう理論ですか」
「今年の4月に発表された壮大な越前論だよ」
「壮大、ですか……………」
「部長御自ら宣われたのさ。オレって云えば手塚だからな、覚えとけこの四角メガネ、って」
その逆もまた然り。実に安易な構造の新理論。
乾が発言の後、ややあってから、手塚は乾から視線を逸らし、それはそれは盛大に吐息して、眉を顰めた。浅い縦皺が手塚の眉間に顕現する。
「…今日はそっけなくするから気にしろ、とお言葉がありました」
「越前様お好みの直球な台詞だねえ…。で?」
「で?とは…?」
「どういう風にそっけないの?今日の部長様は」
ああ、そういう意味の『で?』だったのかと、手塚は納得した様子を見せる。
それから視線を乾よりも更に上空のナニカへ向けて漂わせた。そこには、手塚の記憶が在る。
「近付いて来ない、目を合わせない、声をかけない、ですね」
「基本中の基本だね。”そっけない”行動の。で?」
「……また、『で?』ですか?」
今度は何を尋ねて来ているのだろうかと、手塚は不可解染みた顔で、再び乾の顔に焦点を合わせる。
視界中央の彼はにんまりと笑っては、ずれてもいない眼鏡のブリッジを押し上げた。
勿論、と意味深に言いおいてから、
「手塚は気にしてあげてるの?」
と、訊いた。
乾からの尋ね文句の後、直ぐに手塚は返答をせず、凝っと乾を見上げた。乾もそんな手塚を見下ろし、次の句を待つ。
そんな二人を対不二戦真っ最中のリョーマが盗み見たことになど、乾と手塚の二人組は気付く訳がない。
一瞬の余所見が起因して、リョーマのラケットヘッドの数ミリ先をテニスボールが擦り抜けて、リョーマの背後で高く跳躍した。
サーティーラブ、という審判役をする部員の声が流れ終わってから手塚は瞼を伏せ、二度目の溜息を吐く。
「一応は………。部長命令ですし」
『部長命令』。その単語に、乾はリョーマに対して哀情を抱かずにはいられない。
彼が部長で無ければ、若しくは手塚より年長で無ければ、気にもしてやらない、ということなのだろうことが窺えてしまったから。
「まあ、今日限定の自由の身だと思って、ゆったり羽を伸ばせばいいよ」
いつも、面倒くさいだろう?アレの相手を仕るというのは。
苦笑した乾へ、手塚は伏せていた瞼を持ち上げた。再び覗いたそれはどこか、文句有り気な双眸だったから、乾は小首を傾げる。
毎日毎日、リョーマに絡まれては辟易した顔をする手塚を見付けていた筈なのだから、ここでは即座に、そうですね、と同意の声が漏らされてもいい筈だ。乾のデータ上の仮想な手塚は間違いなくそう云ってのける。
ああ、これはひょっとして――――。
脳内に在る、手塚のデータを空かさず書き直してから、ぷうっと乾は吹き出した。途端に手塚が訝しんだ顔に眉頭を顰めた。
「乾先輩?」
「手塚も、踝くらいまでは越前が掘った穴に落ちたってことなのかな」
越前が手塚を恋の落とし穴に完全に陥没させるには、ひょっとしたら後少しかもしれない。
確実に、その兆候は見えている。
二人からは離れたところで、苛立たしさを含んだリョーマのスマッシュの音が響いた。
不二相手に劣勢を布かれているせいか、手塚不足からか、将又、いつまでも自分以外の人間が手塚と会話を保っていることからなのか、彼の苛立ちの明確な理由は知れない。
リョーマの我慢が終わることの間近さを、乾はそうやって知った。
所詮、直情型の恋が得意分野な彼でしかないのだから。
穿孔行為。
56000hitありがとうございました。詩音さんへ。
年齢を逆にしても塚の方がどうしても大人思考になります、ね。なんでかな…。わたしの中での越前像が誤っているせいかと…?最近、コミックス読み返してませんしね……。
本来の越前リョーマってどういう子だったかな……しとどな攻めっぷりは覚えているんですが。
なんだか近頃、捏造部分が多いです。まいったな…
そんなこんなでどんなこんなで。
56000hit、ありがとうございましたー
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