鬼はや(彼ヲ)一口に食ひてけり
















漸く書き上がった学級日誌を閉じ、手塚は立ち上がる。その日は日直だった。
目の前では机の上で腕を組み、その上に顔を突っ伏してすっかり眠ってしまったリョーマがいる。手塚が立ち上がった際にの椅子の足が床を蹴り、つい鳴ってしまった音で、それも終わった。
待ち焦がれていた音なのだから、それも当然の事。
椅子が鳴る、イコール、手塚が席を立つ。つまり、やっと帰ることができる。一緒に、という言葉も付け加えて。

「帰るぞ」

待たせたことを詫びないのは、自分に対する彼らしさのひとつだとリョーマは思う。他人行儀さや、友人レベルの親しみ以上がそこにあると。
勝手に待っていたのは自分だから、リョーマも謝って欲しいなんて思わない。
部活で損なった体力の一端をこの居眠りで少し取り戻せたから、逆に喜ばしいこと。手塚が黙々と作業に没頭する人間で良かった。

前に倒していた体を起こし、まだ椅子に腰掛けたまま、リョーマは指を組み、それを繋げさせたまま翻す動きをしながら顔の前で大きな半円を描き、天井へと腕と背中を伸ばした。

「お腹、空いた」

伸ばした腕の先で組んでいた指を解き、両脇に再び半円をゆったりと描き乍らリョーマは手塚の方を見てそう言った。
不可解そうに、帰り支度の手塚の眉が顰まった。

ぐう、とその場に間抜けな音が響く。















ありがとうございましたぁー。
明るい店員の声を背中に受け止めつつ、手塚とリョーマはコンビニを出た。
リョーマの手には温々と湯気を立てる肉饅がひとつ。綻んだ顔で、リョーマはそれに齧じり付いた。
店を出てから10歩も進んでいない。
思わず、行儀が悪い、と手塚は眼下の後輩を窘めた。

「じゃあ、なに?家に帰ってからたっぷりと冷めた肉まんを食えっていうの?アンタは」

日本の冬の醍醐味を何だと思ってるの、と日本の冬は1年生なリョーマが言う。しかも二口目を頬張った直後だったから、手塚の耳にははっきりと何を言っているかは聞き取れなかった。

ひほんほふふほはいほひほ、なんらほおほっへふほ。

やけにハ行の多い一文にしか聞こえなかった。
飲み込んでから喋れ、もう一度手塚はそう叱った。その直後に、ごくん、と飲み込み、手塚の教えに従ったやり方で口を開こうとすれば、今度は「ちゃんとよく噛め」と言われる。
なんだか怒ってばっかりだな、と怒られた事には気を留めず、ぼんやりとリョーマは手塚を眺め上げた。



遡ること十数分前。
部室から正門までの道を歩きつつ、リョーマが何度目かの胃の唸りを上げた時、「近くにコンビニがあったよね」とそれまでの話題からはすっかりと逸れたことをリョーマの方が言った。
確かに、正門から少し歩いた先にコンビニは一軒ある。人口も多く、都会の真ん中でもある場所柄、乱立する雑木林の様にあの手の店はそこら中にあった。
リョーマが挙げたコンビニからまた少し行けば、違う企業が営むコンビニエンスストアがあった。

「あることはあるが………」

見上げてくるリョーマの視線を受けつつ、手塚は嫌な予感に襲われていた。
そんな悪しき予感を増長させる可愛らしい笑みをリョーマは向けてくる。

「ねえ、アンタさ、小銭持ってな…――」
「持ってはいるが、買い食いはしない」
「じゃあ、オレだけ食べるから」

はい、とリョーマは両手を揃え、掌を上に向けて差し出した。手塚の方へと。
向けられたその手に一度視線を落とし、それからリョーマの顔へと動かして、手塚もにっこりと笑ってみせた。しかしその直後に、ぱしんとリョーマの掌を叩き落とした。

「集るな」
「だって、ファンタ代しか持ってきてないもん。今日の分は使ったから持ってないし」

ぶすりと膨れて物を言う。
所持金が無いのなら、真っ直ぐ、家に帰ればいい。そうすれば、無駄な金も遣わず、満足行くまで物が食べられる。
そう手塚は指摘するけれど、

「やだ。今、お腹空いたの」

手塚の袖をはっしと掴んでそう言った。膨れた顔のままで。
そんな我侭に、憮然とした。嫌だとごねられても奢ってやる謂れが無い。

「越前、離せ」

軽く腕を振払うが、その動きに合わせてリョーマも腕を揺らすものだから、手塚の狙い通りにリョーマの手は離れては行かなかった。

「お腹空いた」
「知った事か」
「ひど…っ!」

何が酷いことがあるだろうか。自分の言っている事の方が正論だという自信はある。
はあ、と遣る方無い溜息をやや項垂れつつ吐き出す。呆れていますよ、と見せつけるかの様に大業に。

「颯々と帰る。それで全………………」

それで全ては解決だ。
頭を起こし、そう切り捨てようとした刹那、手塚の目に飛び込んできたのは手塚の袖を尚も握りしめたまま、上目遣いで、口をヘの字に曲げ、頬をぷくりと膨らませているリョーマ。
それを思わずまじまじと見詰めてしまい、咄嗟に手塚は顔を逸らした。

年相応な膨れっ面をしてみせる姿に、愛らしさを不覚にも感じてしまった自分を殴り飛ばしてやりたい。

顔を背けたまま、本当に微弱な程度で手塚は体を震わせた。それは手塚を強く掴んでいたリョーマには直ぐに感知される。
持ち前の勘の良さで、聡くリョーマは手塚の心境を悟り、彼が向こうを向いているのを良い事に、声も立てず薄気味悪い笑みを浮かべた。

カチン、とリョーマの中の一つのボタンがONに傾く。それは意図的に。確信犯で。

「ねえ……」

その声にゆったりと手塚が振り返る。少し目尻が赤いのは、冬空に余韻を残す夕暮れのせいだけではない。
顔が顰められているのは手を焼く後輩に嫌気が差して、ではなく、きっと己に対して、だろう。

リョーマは俄に、手塚の袖を掴む手に力を込めた。
それを合図に、体の各部は言葉にはされない本体からの命令を受け取って、皮膚の下でその時を待つ。

本体からのゴーサイン。それは次に口が開いた時。

手塚を振り返らせた後、数拍の間を取ってからリョーマは己の中に潜む工作員達にゴーサインを出した。

「おなか、すいた…」

その一言と共に、涙腺は眼球の上に零れる間際の水の膜は張り、つい先程迄は不機嫌さから吊り上がり気味だった眉尻はくたりと下がり、血液も活発に頬は薄紅色で染まったかと思えば体躯は寒さに打ち拉がれる様に小さく震える。何の変哲も無かった唇が一息に張りを持ち、頭上の男を誘う凶器に変貌した。

どくん、と相手の体内で心臓が跳ねる音が、リョーマには手に取るように判る。
偶にしかしないこの戦法の有効性を気配で感じ取って、酷く快い気分。

何秒もの空白があってから、手塚は震える声と閉じ乍ら震わせた瞼とで、やっと折れた。



「一口くらい食べる?」

買ってもらった立場の癖に、分け与えてあげようか、という妙な倨傲の様。
そんな彼を一睨みしてから、無言の内に手塚はリョーマの手首を取り身を屈めた。買い食いはしないと宣っていた筈なのに、ちゃっかり御相伴には預かるらしい。

けれど、手塚が肉汁溢れるそれに齧じり付く寸でのところで、引き寄せた筈の腕は逆の方向へと牽引され、人肌より僅かに熱いものに触れた。

「買い食い代くらい、ツケになんかしないよ」

唇を離して、リョーマはそう言った。優位に立ったあの顔つきで。



















鬼はや(彼ヲ)一口に食ひてけり
外見可憐中身野獣。今回はヨークシャテリア(生後1か月)の皮を被った土佐犬(闘犬直前)イメージで。
相変わらず人様から頂くリクを履き違えている感もいたしますが、感謝の気持ちと共にご申告頂きましたれんさんへ。
えちは、『かわ、かっこ、いい』(強調)、んスよ。

59999hit、ありがとうございましたー!
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