若気の至り
然して揺れもない畿内、微睡みの中で思い出すは小さな頃の自分と面映い記憶。
まだ言葉選びも拙く、舌っ足らずな口調で、「オレがかえってきたら、けっこんしよう」幼馴染みだった初恋の相手にそう言った。夢では無く、幼少期の記憶。
やっとそれを実現する時が来たのだと、日本到着のアナウンスが流れるのと同時、目を覚ましたリョーマは自然と笑みを浮かべた。
降り立った空港は覚えているものと大差はまるで無い。精々、あの頃より身長が伸び、視界が広くなったことで、やや手狭に見える程度。
共に帰国の途に着いた母へ手荷物は任せ、身一つでリョーマはとある場所へと向かった。
帰国早々、というのは我乍ら何とも性急なことだとは思うけれど、どうしたって其所以外に目的地も思い浮かばないのだから、仕方が無い。
電車を乗り継ぎ、駅を出て記憶通りに道を行けば迷うことなくあの門構えが確りとした家に着く。元の我が家からは程近いこの場所。まるで忘れていなかった道順に、苦笑をするりと零しつつも、インターホンを鳴らせば、神の思し召しか、目的の人物であるその人が出た。
声が随分と低くなっているのに、気付ける自分も大概なのだけれど、
「ただいま」
第一声にそう告げると、
当たり前乍ら機械向こうで相手から不審そうな気配が漂う。
「越前リョーマ。この名前、覚えてない?」
こちらは何よりも誰よりも覚えていたのに、相手はすっかり忘れてしまっているらしいこの温度差に残念さを覚えずにはいられない。それでも、気丈な口調で名乗れば、少しばかりの沈黙の後、「ああ」と漸く思い出してくれたらしい一言が飛んでくる。
「今出る。少しそこで待っていろ」
それを最後に、インターホンのスピーカーはがちゃりと無機的な音を立てて切れ、代わりにドアがゆっくりと開いて相手の顔が覗く。
久々に見た顔は随分と大人びていて。その上、背もぐっと記憶の中にあった彼よりも大きくなってしまっている。見下ろされる格好になりつつも、またリョーマが先に口を開いた。
沸き上がる高揚感を必死に押さえ付け、それでも迫り上がってくる笑みだけは少し滲ませて。
「久しぶり」
「ああ。それにしても、帰ってくる前に一言連絡でも入れれば良いものを」
誰だかさっぱりわからなかったぞ、と彼は少し苦笑して、リョーマを家に上げた。自室へと続く階段を上る彼の後を追い乍ら、リョーマは気忙しく手塚に尋ねる。
世間話や近況では無く、オレとの約束を覚えてる?と。段差を含んだ高い位置から手塚が振り返る。怪訝な顔色で。
「約束?」
「ほら、オレが発つ前に言ったでしょ?覚えてない?」
「……?」
ことりと手塚は小首を傾げるが、それもものの数秒のこと。何かを思い出したのか、二三度軽く頷いた。思わず、リョーマの顔色もぱっと華やぐけれど、次に出て来た手塚の的外れな答えにがっくりと肩を落とさずにはいられなかった。
「年賀状は必ず出せ、だったか?ちゃんとしてやっていただろう?」
「……いや、あの、そっちじゃなくてデスネ……」
「では、あれか。読みかけの漫画の続きを代わりに買っておけという―――」
「そっちでもなくて!」
寧ろ、そっちの方こそリョーマはうっかり忘れていたというのに、手塚はそんなことばかり覚えているらしく。よもや肝心のところを忘れてはいないだろうな、と危惧するリョーマが手塚の自室に着いてからそれとなく尋ねてみれば、
手塚はこれ以上無い程に不審さを露にして、
「アメリカンジョークはよくわからないんだが」
恍けるでも無く揶うでも無く、至って真面目な顔で平然と言い放った。
その瞬間、どうしようもない絶望感に襲われて、思わずリョーマはその場にへなりと座り込んだ。
フライトの間中、そればかりを思い返して一人心弾ませていたのが馬鹿みたいだと思った。
帰国が決まった日なんて、両親が揃って不可解な顔をする程、その場で踊り狂いたい程浮かれて、一日中鼻歌を口ずさんでいたのに。
あの時のことを真に受けていなかったというならまだ兎も角も、完全に手塚の中ではそんなことは一切無かったものとして片付けられているらしかった。今も、急に座り込んでしまったリョーマを何事だろうかと言わんばかりの戸惑った目線で見下ろしている。
巷で酷いショックを受けた時のことを、鈍器で殴られたような衝撃、と形容することがしばしばあるけれど、ああ、こういうことかと、今、正に、身を持ってリョーマは体験していた。殴打されたかの如く、頭の中で音がわんわんと反響している。前頭葉がずっしりと重みを増した気がする。
「リョーマ?」
項垂れるリョーマの顔を覗き込む高さまで緩々と腰を下ろしてくる手塚をリョーマは見上げた。睨むつもりで目尻をきりきりと上げたけれど、涙目になってしまっていてまるで覇気は無かっただろう。
呼びかけてくる声は低くなっても呼び方は日本を発つ前と何ら変わらないのに。
顔の造作も少々変わったけれど、あの頃を思わせる名残はまだまだ成熟しきらない少年の顔の中にある。
目の前の人間は、確かにあの日、約束を告げた相手であるのに。
こんなことって許されるのだろうか、とリョーマはまた項垂れた。そんなリョーマにどう接すれば良いのか手塚も逡巡してしまって、再会を喜ぶ筈の空気が重く沈んだ。
「……所詮さ、オレの思い込みだけだったんだよね。ちっちゃい頃、アンタが好きで、結婚しようなんて只の、子供の戯れ言でしかなくて」
「……誰も、お前のことを嫌いになったと言ってはいないと思うんだが…」
「じゃあ、」
オレと結婚してもいいって思えるくらい、オレのこと好き?
目に水の膜を貼付けたまま、顔を上げてリョーマが言う。手塚は面食らう。そしてその一瞬のたじろぎに、リョーマはまた肩を落とす。
引き際を知らない澱んだ空気に、手塚の呆れ果てた苦笑が混ざった。
「結婚なんて現実味の無いことを言われる方の身にもなってみろ」
「…だって、オレはちゃんとアンタに言ってったもん」
「第一、この年で結婚してお前は何がしたいんだ」
「何……って、何?」
手塚の顔を振仰ぐ。その時には手塚も向かいで腰を下ろしていた。
「一緒に暮らすだけならご両親の許しを貰ってお前がここに住めばいい」
しれっと言い放つ手塚に面食らうのはリョーマの番。
「いいの?」
「娘さんを預かる訳では無いから、うちの両親も頑に反対はしたりしないと思うぞ?」
「いや、っていうか、あの、ええと…オレの方には所謂下心ってのがあるんだけど……」
「まあ、お前も年頃だからな。それくらいはあるだろうな」
「………。その下心の矛先がアンタに向かってるっていうのは理解してる、の?」
どうしてこんなにおどおどと尋ねてばかりいるのだろうかと、己のこと乍らすごく訝しい。それというのも、手塚が淡々とリョーマが訊くことを受け止めているからで。
まさか、ひょっとして、
不意に色好い想像がリョーマの脳裏を過る。気が付けば、『もしかして』程度のそれが口先を滑り落ちていた。
「国光ってオレのこと、好き?」
「だから、いつ俺がお前のことを嫌いになったと言った?」
「いや、そうなんだけど…」
手塚が言う『好き』のレベルは所詮友達レベルでの好意でしかない様な気がして仕様がない。愛情、と言うよりは友情。そんな『好き』
嫌いでは無い、と『好きだ』と名言するのを避けているのも、リョーマにそう思わせる一端。
疑わしい目つきで手塚を見上げるリョーマの双眸からは、既に先程までの涙は引いていた。
そんなリョーマを同じく疑わしい目で見下ろすのは手塚。
「お前、まさか出発直前にお前が俺にしたことを忘れたわけじゃないだろうな?」
「へ?」
リョーマには薮から棒の話題。その話題を振った手塚の眉間には見る見るうちに浅い縦皺が刻まれていった。
「…俺のファーストキスを奪っていったのはお前なんだが…」
「はァ!?」
思ってもみない素っ頓狂な声に、声を上げたリョーマ自身が一番驚いた。手塚からの爆弾発言に驚嘆して思わず出てしまっただけに、理性による制御は無い。咄嗟に、という表現が的確だった。
「…恐らく、『アレ』のせいで俺にはお前が言うところの約束の記憶が無いんだと思うんだが…」
「え、ちょ、エー?うそ、オレって、そんなことした?」
「した」
二言は許さない、とばかりに手塚からぴしゃりと断言の声が飛ぶ。
頬を引く付かせ乍ら、リョーマが当時の記憶を必死に掘り起こせば、ぼんやりと手塚が言うようなことは思い出されてきた。
空港。動こうとしないリョーマの手をもう出発だから、と急いた様に引く母親の手。動こうとしない目の前には幼い頃の手塚の姿。リョーマは母親の手を振払って、僅かだった手塚との距離を詰め、まだ身長の開きが無かった手塚に子供らしい拙さで啄む程度のキスをして、
そしてその後に、『オレがかえってきたらけっこんしよう』そう言った。
今となっては、その時の手塚の様子も覚えている。真っ赤になって俯いて、確かしゃくり上げていた。
そして、つと現代に立ち返ってみれば、目の前の少年はあの時よりは幾らか淡い朱を目元に差し乍ら、
「責任は取ってもらうぞ」
そんないじらしい事を言って、リョーマに顔を近付けた。
若気の至り。
名前呼びって普段させないので何か臍の下がわきわきする感じですね(どんな感じですか)
でも幼馴染みで名字呼びっつうのも何か変な気がしたので、名前呼びでFA。
79997hitありがとうございました!こんな出来ですがはるみさんへー。
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