RAEDY,STEADY,GO!
そろそろ言う頃だと見当はついていた。
別居生活が始まって一か月。
"猫"と"飼い主"の”別居”が始まってから。
手塚が一人暮らしを始めたマンションにリョーマが転がり込んできてから。
今日で一か月。
想像通りの台詞を吐いた同居人に、何てキリが良いんだろうな、と手塚は心の隅で少し呆れた。
「ねえ、猫飼わない?」
問われて、手塚に即座に返したのは「嫌だ」の一言。
因に、手塚が住むマンションはペットブームに優しいペット飼育可能な物件だった。隣室の人間は室内犬を2匹飼っているらしい。ベランダに出ると声の高低が違う犬の鳴き声がふたつ聞こえてくる。
「…いやだ?」
手塚の返答に、駄目じゃなくて嫌なのか、と不思議そうにリョーマはことりと首を傾げてみせた。
そんなリョーマに、手塚は念押しとばかりに同じ台詞をぶつけてやった。
「嫌だ」
「アンタって猫嫌いだったっけ…?」
実家暮らしだった頃、飼い主よりも寧ろ飼猫の方に構う姿を度々見ていただけに、手塚の嗜好と言葉とがどうにも結び付けられない。リョーマはより一層、不思議そうな表情を露にした。
そんなリョーマの顔を一瞥だけして、手塚はぷいと顔を背ける。
「嫌なものは嫌なんだ」
「じゃあ、カルをこっちに連れてきてもいい?」
考え至ったのは、まだ実家の猫が存命にも関わらず他の猫を飼う不貞さにあるのかということ。だから、そう提案してみせたのだけれど、
「嫌だと言っている」
手塚は顔を背けたまま強い口調でまたそう拒否の言葉を繰り返した。リョーマの中での疑問は膨らむばかり。
駄目だと言うのなら、まだ引き下がりようもあろうに。どうして、”嫌”なのだろうか、と。
「どうして?」
どうして嫌なの?
顔をあちらへ向けたままの手塚のシャツの裾を小さく引っ張って、素朴な疑問のまま、いとも単純にリョーマは尋ねてみせる。
手塚がNOと答えるならば、それはそれで仕方が無いなと潔く引き下がるつもりだったのだけれど。
昔に比べればマシにはなったが、それでもまだまだ手塚は言葉が足らない。
「…第一、世話は誰がするんだ」
「そりゃ、ちゃんとオレがするって」
「来週にはまた海外遠征に行く癖に、か?」
「んー……じゃあ、連れてくから」
「…矢張り嫌だ」
きっぱりと手塚はまた嫌がった。
手塚のシャツを掴んだまま、リョーマは遂にぶすりと唇を尖らせた。なんて頑固な男なんだろうかと思って。
家賃も光熱費も、きちんと二分割で払ってもいるし、在宅中はきちんと家のこともこなしているのだから、こちらの我侭も少しは聞いてくれてもいいのに。
猫は然して手がかからない。
犬と違って散歩の習慣も無いし、躾を最初にきちんとすれば柱や壁を爪で傷つけることもしない。
猫によっては、餌と水だけをポンと置いておいてやれば日に一回トイレの掃除をしてやるだけで勝手気侭に暮らす例もある。
子猫時代から室内で飼われていれば、外へ出かけてノミや病気をもらってくることも無い。
日がな一日、何をするでも無く寝ていることが殆ど。寝子、が猫の語源だという説もある程に。彼等は実に良く眠る。
だから、そんなに難しく考え過ぎなくていいのだとリョーマは手塚を諭してみたのだけれど、矢張り手塚は頑として首を横に振るばかりだった。
「……あのさあ、何がそんなに嫌なの」
「ならば聞くが、お前はどうしてそんなに飼いたがるんだ」
「だって、今までずっと猫がいる生活だったからさあ…。なんか物足りないっていうか、寂しいっていうか…――」
猫を飼ってきていない手塚にはこれはちょっと解らない気持ちかもしれないけれど、リョーマにとってはそれが率直な気持ちで。
ふわふわもこもこした大きな毛玉が部屋を闊歩して、時々甘ったれた声でひとつ鳴く。そんな日常が欠けてから一か月。ホームシックならぬキャットシック、とでも言うものかもしれない。
「そんなに猫がいる生活が良いのなら、実家に帰ればいい」
淡々とした調子で零された手塚の言葉に、リョーマはカッと頭に血が逆流するのを感じ、反射的にその場に勢い良く立ち上がった。
そんなリョーマの動きに手塚は少しばかり喫驚したらしく、それまで背けたままだった顔をリョーマへと振り向けて、唖然と目を丸める。
手塚の五感が正常ならば、一人で起立したリョーマからは怒りのオーラとも言うべきものが立ち上っていた。そこに至ってやっと、手塚は自分が失言を漏らしたことに気付いた。
馬鹿な子。
「じゃあ、帰る。もうここには来ない」
低い声で一息にそれだけを告げ、リョーマは踵を返した。――否、踵を”返そうとした”。
けれど、後ろを振り返ってまず一歩目。くんっと何かに引っかかっている様に一歩目が上手く踏み出せなかった。
引っかかりは後ろ。緩々とリョーマは背後を振り返った。
「あ……」
そこには退去しようとしていたリョーマのTシャツの裾を強く摘んだ手塚が居て、ばちっと一直線に目が合った。気付いた様に声をあげたのは戸惑いの目をしたままの手塚。
「……」
試す様に目を細め、座りっ放しの手塚を見下ろし、わざとらしく間を置いてリョーマは口を開いた。
「帰るよ」
「帰…るのか?」
理路整然とした言葉ばかりを口にする手塚としては珍しい、理解不能な返答ぶり。思わずぷうっと噴き出したい気持ちをぐっと堪え、リョーマは冷淡さを装った。
帰る、ともう一度繰り返すと、手塚はTシャツの裾を握る力を強めた。一瞬、後ろに昏倒するかと錯覚する程の手繰りよう。
目は戸惑ったまま。
ああ、なんて馬鹿な子。素直になればいいのに。
ぷっ、と笑いを決壊させてしまえば、弾かれた様に手塚が手を離した。
「帰るよ」
「…か、帰るな」
「だって猫飼うの嫌なんでしょ?」
「猫は嫌だが、お前は帰るな」
「…アンタ、言ってること無茶苦茶だよ?気付いてる?」
「……気付いてる」
そう言った手塚の耳は酷く紅潮しており、更なる笑いにリョーマは誘われた。
くつくつと赤面の手塚を見下ろしたまま愉快そうに一頻り忍び笑い、リョーマは腰を下ろし直して手塚の顔を間近から覗き込んだ。
降りてきたリョーマの顔をちらりと一瞥しただけで、手塚の視線はまたそっぽに逃げた。盗み見だけした両目が涙目だったのは気のせいじゃないともっと楽しい。
「ねえ、なんで猫嫌なの?」
「…時間が減る」
普段、主語がどうとか小難しく説教を垂れるくせに、今、品詞が足りなくて拙い日本語を話しているのはどこのどいつだ。
「何の時間?」
そう尋ねつつも、リョーマは何となく想像はついている。主語が欠けたり目的語を抜かした喋り方をしているのが平素はこちら側だからかもしれない。
言葉が足りない者同士というのも、意外と解り合えるらしい。
そして、リョーマの想定内、寧ろ想定通りの言葉を手塚は辿々しく口先から零した。
「…お前が、俺にかまける時間が…」
「今でもしょっちゅう家、空けてるもんね、オレ」
「…猫は連れて行っても俺は連れていかないんだろう?」
「だって、アンタ仕事あるし」
「ちゃんと日程が判っていれば事前に有給の申請ぐらいする」
「…じゃあ、来月の遠征、ついてくる?」
「行く」
流れのまますらすらと出てきた手塚の言葉に、リョーマは満足そうに、ニ、と笑った。
RAEDY,STEADY,GO!
位置についてよーいどん。タイトル因はラルクさんですが、あの、まあ、あまりお気になさらず…ズッパンと思い浮かんだだけでごぜえますだ。…うん。
痴話喧嘩てこんなノリでもオッケなんでしょうか。オッケだと思ってガツガツ打ってはみたものの、毎回恒例、書いてから不安になるオオザキ病発症です。
オッケサインが出ることを祈りつつ、91000ヒットゲッタのりつこさんへ捧げさせて頂きますー。
お題は未来設定で痴話喧嘩。でした。
ありーがとうーございましーたーっ!
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