ファーストインパクト
今年も数多の女子生徒からの気持ちを無碍にした上での付属品を、左手に携えた紙袋の中に揺らしつつ、手塚は2月の14日という日を終えた。
言わずもがな、バレンタインデー。
手塚の左手が掴んでいる紙袋の中には、丁寧にラッピングされたチョコレート達。
昨年までは、特にこれといった理由はなかった。告白を断るにしても。
ただ、気が彼女達に向かっただけ。魅力的だと、一目見て思える様な子がいなかっただけ。
けれど。
けれど、今年は違う。
今年は、確固たる断りの理由がある。恋人が居る、というその事実。
噂には敏感な彼女達のこと、どこから仕入れたのかは知らないけれど、手塚に想い人が居るという事実を薄らとは掴んでいたらしい。それ故に、今年は例年に比べて数は少ない。
呼び出される回数も、そしてそれを断る回数も、持ち帰る荷物も軽くて、手塚としては好ましい。彼女達には失礼極まりないだろうけれど。
しかし、本来ならば今年はひとつとしてチョコは受け取らない予定ではあった。
理由は非常に簡潔。
免罪符となってくれた恋人その人が、独占欲の塊で、我侭だったせい。義理のひとつ程度の気分でチョコレートを受け取っても、きっと機嫌を悪くする。本人から直にそう言われた訳ではないけれど、恐らくそうなるだろうと手塚は結論付けていた。
けれど、彼の予想は今日に限って外れた。押し付けられて受け取ってしまったチョコレートを見ても、相手が珍しく臍を曲げなかった。
寧ろ、手塚が最終的に受け取ったチョコレートの数を嬉しそうに数えてから、お互いの帰路に別れた。
彼の態度を思い出しては、手塚は帰り道の上で不思議そうに小首を傾げるのだった。
「只今戻りまし………」
帰り着いた我が家の玄関に手をかけ、いつもの帰宅の挨拶を告げようとした手塚の目に、飛び込んでくるのは、
「おかえりなさい、国光」
いつも通りのエプロン姿の母と、
「おかえり、部長」
先程、バイバイ、と手を振って別れたばかりのリョーマ。しかも見慣れぬエプロン姿。
思わず、手塚は手にしていた紙袋を落とした。どさり、と無情な音が手塚家の玄関に谺する。
「…………………母さん」
「なあに?」
「あの………その、物体は…?」
「越前リョーマでーす」
軽やかに弾む口調で、それはもう可憐にリョーマが自分の名を名乗る。
いや、それは知っている………。名前は随分と前から知っている。
手塚が訊きたいのは、そんな事ではなくて。
「どうして、お前が俺の家にいるんだ」
そう改めて尋ねた瞬間に、にんまりと笑った。リョーマと、それから彩菜とが。
奇妙な笑みの形を作った後に、リョーマと彩菜は揃って顔を見合わせ、後ろに組んでいた両手をぱっと掲げた。
「リョーマとー」
越前リョーマが掲げた手には銀色に光る泡立て器と、ゴムベラ。
「彩菜のー」
手塚彩菜が掲げた手には計量スプーンと真っ赤なボウル。
それらをただ唖然と手塚が眺める中、二人は綺麗に声を重ねて、
ドキドキクッキングーゥ
そう言った。
辛うじて掴んでいた学生鞄も手放して、手塚はその場に頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。どれだけ高熱が出る風邪の時でも、これ程酷い頭痛がしたことがあっただろうか。
頭蓋骨の中で巨大な和太鼓ががなり立てているのではないかと疑いたくなるくらいに、ガンガンと頭が痛んだ。
「………………………母さん、あの…」
「さあさ、これからキッチンは国光禁制よ。国光は自分の部屋に行って頂戴」
ただ呆然と立ち尽くすしかなかった手塚を三和土から引っぱり上げ、更にその背を階段の方へと押し遣る。
せめて何か説明を、と背を押され乍ら藻掻く手塚に、何事かを思い出したらしいリョーマが楽しそうに耳打ちしてきた。
「部長、支度がしてあるから、部屋に行ったら着替えててね?」
「支度…?」
「行けばわかるから。ね?」
彩菜に加えて、リョーマもえいえいと手塚の背を押し遣る。
そうして、かなり強引に手塚は自室へと詰め込まれた。
因に、手塚が手放した事に依り残されたチョコレートで犇めき合う紙袋は、満足気に台所へと向かうリョーマの手に依って回収されたことをここに記しておきたい。
「……支度…?」
過ごし慣れた自室を見渡して、それはそれは歪に、手塚は顔を顰めた。
まず、目に飛び込んでくるのが、部屋の中心に小山となって鎮座している赤いリボン。幅は15センチはあるだろうかという、実に巨大な装飾用の紐。それが、蛇が蜷局でも巻くかの様にしてこんもりと在る。一見しただけでも、相当な長さだろうことが解った。
そして、次に手塚の視線を奪ったのは、ベッド。
いつもの冬用布団だけでは無い。幾度と数えるのが億劫になるくらい、リョーマと肌を重ね合わせてきた場所。
そこを、透明なビニールが完全に覆っていた。それは、ベッドからたっぷりとはみ出て、床と壁の広きに渡って拡がっていた。
「…………………………」
言い様も無い悪寒を、手塚は感じ、入ってきたばかりの扉をそっと潜り直した。
そのまま、足音を沈め階段を下り、でかでかと『手塚国光立ち入り禁止』と書かれたキッチンの扉を、禁忌を犯して開けた。
途端に、鼻腔を掠める程度では済まない、強烈な香りが襲ってきた。甘ったるい、カカオの香り。
見れば、いつもは煮物や炒め物が作られるコンロに、どこの魔女の大鍋かと言わんばかりのアルミ製の鍋が据えられていて、その中を楽しそうに雑談し乍ら例の二人組が覗き込み、お互いが掻き混ぜていた。
小鳥の囀り宛らに、花が咲いていた会話は手塚が後ろ手に閉めた扉の音で止んだ。
そして、計4つの眼が手塚を振り返る。
「あれ?部長、部屋にあったのどうして着てないの?」
「着……?」
「リボン」
「…………………………………………」
「それに…………国光、表の紙が見えなかったの?」
「”てづかくにみつたちいりきんし”って書いてあったんだよ?部長」
「それぐらいは………読める」
それじゃあなんで、と非難の声を投げるリョーマと手塚の間にある作業台の上には、ホームセンターで見かける様なポスター用と思しき刷毛がひとつ。そしてその周りには手塚が家まで持ち帰ったベージュの紙袋と、その中に入っていたラッピング用紙とが無造作に放られていた。勿論、それらが包んでいた茶褐色のお菓子はもう其所には無い。
それらを見留めた刹那、ぞわぞわぞわぞわっと手塚の毛穴は鳥肌で膨らむ。
「…………嫌な、予感がする」
リョーマからの非難に抗議するより先に、手塚はぽつりとそう漏らす。頭に疑問符を浮かべつつ、リョーマと、それから彼の隣に立つ彩菜も首を傾げた。
「……母さん。…それから越前も。何を、してるんですか……」
「何って………ねえ、越前君?」
「ねえ、彩菜さん。今日にすることと言えばひとつしかないよねえ?」
「そうよねえ? …国光、貴方も薄々は勘付いているんじゃないの?」
今日は何の日?と彩菜が笑顔で愛息へと問う。
暫し、台所の床に視線を彷徨わせてから、怖ず怖ずと云った調子で彼は口を開いた。
「バレンタイン、デー………ですよね?」
「わかってるんじゃないの」
「じゃ、部長、バレンタインデーっていえば?」
それは恰も連想ゲーム。
今度はリョーマからお題を出されて、また視線を放浪させてから、手塚はポツリと一言。
「…チョコレート………」
「日本では好きな人から好きな人へ、今日この日に送るよね?じゃあ、ここで記憶クイズ」
ピン、と手塚が立つ位置から正面の場所でリョーマは人差し指を立てた。
「今日、オレは部長からチョコをもらったでしょうか?」
「やって……………いない…が」
それはお互いが男同士だからで、そしてリョーマが強請ってきたりもしなかったから。
手塚の言い分としてはそうだけれど、リョーマの言い分としてはそうではないらしい。
「オレとアンタの関係って、今日みたいな日は確実に間にチョコレートが発生するよね?」
「………待て」
「待たないよ。結論、教えてあげようか?」
手塚からの静止の声も一刀両断に切り捨てて、リョーマは先程までの可愛らしさが残るレベルの笑いを引っ込めた。代わりに彼の表情に浮かんでくるのは、猛禽類宛らの、ぎらりと鈍く眸を輝かせた質の悪い笑顔。
本能からの警鐘に、手塚は一歩、身を引くが自らの手に依って閉じたドアに逃げ道を塞がれた。知らず、顔が青褪め、頬が引き攣る、膝が笑う。
怯える小動物と、それに襲いかからんとする肉食獣。二人の構図を端的に表現するならば、これが的確であろう。
その光景を、第三者である彩菜は笑顔で見守った。胸中で唱える言葉は『二人ともファイト!』
…………彼女だけは何とも暢気なものだった。
逃げ腰の手塚へと、リョーマはゆったりと足を進める。鄙俗しいくらいの目線は手塚へと保ったまま。
コンロの前を離れ、作業台の脇を抜け、そこに置いてあった刷毛を手に、ゆったり、ゆったりと、非常に緩慢な動作で前進を続け、逃げられないままでいる手塚の眼下へと辿り着いた。
「アンタが貰ってきたチョコとオレが貰ってきたチョコとを全部溶かして、これ、で、」
ざらり、と冷や汗をかき始めた手塚の顎裏を、化学繊維が入り交じった獣の毛が淑やかに撫でる。それを操るのは赭い舌をちらりと覗かせて薄笑うリョーマ。
本能的に感じ取った身の危険のせいか、ごくり、と大粒の唾液を手塚は喉を鳴らして飲み込んだ。
「アンタの体に塗ったくって、オレが食うんだよ…!」
「えちぜ………やめ…っっっ」
言様、リョーマは手塚の腕を引き、ドアを乱暴に開けて外へと――厳密に言えば手塚の部屋へと――声が上擦る彼を連れ出した。
力強く階段を上っていく足音と、鳴き声にも近い息子の声とが次第に遠ざかっていくのを耳にしながら、彩菜はそれはそれは朗らかに、柔らかに、又、見ようによっては羨ましそうに、
「若いって、いいわねえ」
笑みながらそう言った。
生クリームを加えたおかげで適度なペースト状になりつつあるチョコレートが人肌に冷めた頃、巨大な両手鍋は手塚の部屋へと献上される手筈になっている。
ファーストインパクト。
9191hit分の、琴子さんからのリク、でした。「越前さんと彩菜さんという親友タッグと、今までとは違うバレンタインを迎える部長」
哀れ、手塚部長はチョコまみれで王子にペロリーされます。哀れ、といいつつも、役得でもありますよね。いいな、手塚………
9191hit、ありがとうございました!
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