式直後の講堂出口にて。
















「毒を食らわば、皿まで」

つい数秒前、卒業おめでとう、という月並みな台詞を笑顔で告げた越前リョーマは手塚の眼下でその瞬間に、非常に質の悪い顔へと変貌した。
そして、その言葉終わりと共に、手塚は背後に気配を感じたけれど、時は既に遅し。
振り返り気味の手塚は、そのままの体勢で背後から忍び寄っていた乾に羽交い締めにされ、身動きを直ぐに失った。

「乾、貴様…っ!何を…!!」
「悪いな、手塚。ノートが人質に取られているんだ」
「そういうこと」

肩越しの乾から、正面に立つリョーマへと手塚は視線を移す。
前門の虎、後門の狼。まだどちらの災難からも抜け出ては居ないけれど、そんな諺が手塚の脳裏を掠めた。
前門を拒ぐ虎、こと、リョーマは先程浮かべた悪質な笑みで、どこからかノートを一冊取り出す。手塚がそれを凝視せずとも判る、モスグリーンの表紙と、そこに大きく書かれた丸の中に”乾”の文字。人質、と称された物品だろう。

一度取り出したそれを、またリョーマは片付けた。
手を後ろに回した次の瞬間に、手からノートは離れていたから、精々、ズボンの背中側にでも差し込んでいるのだろう。

そして、両手が再び空になったリョーマは身動きが取れないままの手塚へとじりじりと身を詰め、学ランの第一ボタンへと腕を伸ばした。
そこからは実にあっさりしたもので、第一ボタンを外すと第二、第三、と外し、全てのボタンを外すに留まる。ここから、何をされるのか、と不安気な手塚を挟んで、リョーマは乾へとひとつ顎を刳ってみせ、乾はそれに対してひとつ首を縦に振ると手塚の腋に通していた両腕を解いた。
無くなった圧迫感に、手塚が漸く解放されたか、と安堵の気持ちを覚える事はほんの一瞬。
学ランの襟を背後から引かれ、そのままずるんと剥がれ、3月のまだ肌寒い空気がカッターシャツ1枚になった手塚の膚を刺した。

「じゃあね、部長」

咄嗟の事態に、手塚がやや混乱気味で立ち尽くしていれば、つい先程まで目の前に居たリョーマが向こうへと駆け出しているところ。
大きくこちらへと振る手には、乾に依って力任せに剥がれた手塚の学ランが握られており、風にはためいてバタバタと音をさせていた。
手塚が、あっとも漏らせない内に、乾からリョーマへと放られでもしたのだろうか。

「…………………………………。乾」

リョーマの影がすっかり小さくなるまで、立ち呆け、やっと口を開いた手塚はまだ後部に居た乾を厳めしい面と態度で振り返った。
何かな?と、振り返られた側の乾は飄々としたものだけれど。

「お前がノート一冊で身動きを封じられるとは、どうにも信じ難い」
「おやおや、心外だね。俺にだって弱味はあるさ。昨日、ひょっこり俺の家にやってきた越前に掻っ攫われてしまったんだ。こちらは被害者さ」

さも加害者一味だと言わんばかりの手塚の刺々しい口調に、乾は困った様子で肩を竦めてみせる。
けれど、それで解放してやる程、手塚は生易しい人間では無かった。生憎と。
乾がノートひとつで何でも言うことを聞くのならば、不二や菊丸が率先して今までやらなかった筈が無い。確かに、重要なデータが詰まっているのだから、大切ではあるのだろうけれど、奪った人間は同じ部内の人間。他校の人間に渡ってしまったのならば、中々に厄介だけれどそうでは無い。

「……まさか、俺と越前の関係はただの被害者加害者だけじゃないとでも?」
「当たり前だ」

手塚の返事は間断が無かった。
ゆったりと、相手は腕を組んでみせる。何もかもお見通しなんだよコノヤロウとでも、彼が背負う背景の一部に落書きしてやりたい衝動を、乾は思わず抱えた。

「差し詰め、共犯の関係、と云ったところだろう。…………………俺の予想は外れているか?」
「………………ふう」

手塚の視線には容赦が一切無い。
過剰な程に鋭いその双眸では、肝の小さい人間ならば耐えきれず身を竦ませてしまうところだろう。真実を引き出したいのならば、それはちょっとばかり逆効果だ。

「俺が肝のでかい人間で良かったな、手塚」
「は?」
「いやいや、独り言。まあいいか、降参してあげるよ」

言葉と共に、戯けた調子で乾は両手を頭上へと上げた。
手塚はまだ組んだ腕を解く気配は無い。要警戒態勢、と云ったところか。

万歳してみせた腕の片方で、乾は顳かみを掻いた。警戒を解いてくれない手塚に困ったようにも、その様子は見てとれる。

「俺っていじらしい人間に弱いわけ。ま、越前の場合はそこも計算尽くだったのかもしれないけど。強かな子だからね」
「…………もう少し、俺に解り易い解説は出来るか?お前は」

眉を顰めた手塚を少しばかり見下ろしてから、乾は壇上に立っていた校長が式挨拶の最初に褒め讃えた快晴の空を見上げ、ううん、と唸った。頭上は確かに、巣立つ自分達が幸先の良いスタートを切れそうな、雲の少ない青空だ。

「昨日、俺の家に越前が来たことは本当。ああ、手は出してもないし、出されてもいないから、そこのところは何も探らなくていいよ」
「お前相手に探る真似はしないから安心しろ」
「………それって信用されてるのか、それとも、格下に見られてるのか、判断が微妙なところだね…………」
「…すまんな、後者だ」
「ああ…そう」
「それで?」

その先は?
そう促されて、乾も「ああ」と返し、手塚御所望の解説を続けた。

「日本じゃ、後輩が第二ボタンを強請る風習があるんデショ?他の人間はどうでもいいけど、あの人の事となれば、話は別。ひとつだって他人にやりたくないんスよ」

矢鱈に上擦った奇妙な声音で、乾はそう言った。
気持ち悪い、とばかり、明らかに身を引いた手塚に対し、乾は慌てて弁解した。昨日、うちに来た越前がこう言ったのだ、と。
妙ちきりんな高い声は、越前リョーマの声真似であったらしい。剰りにも似ていないけれど。

「毒を食らわば、皿まで。越前はそう言っただろ?」
「ああ、そういえば………」

可愛らしい顔付きが豹変した瞬間に、そんな文句を吐かれた。
ほんの数分前の出来事を回想する手塚の前に、ピンと立てられた人さし指が突き付けられる。そこだよ、と云う乾の声付き。

「やや、意味合いは間違えているけれど、まあそこは越前らしさとして許してやるとして、だ」

突き付けた指を手塚から離し、その右手の人差し指で乾は己の左胸をとんとん、と小突いてみせる。

「お前の”ひとつ”を誰かに取られるくらいなら、取られる前に全部攫ってやってしまいたい。可愛らしい発想じゃないか。健気だよねえ」
「………まだ、式後のSHRやら挨拶回りやら、俺には残されているんだが………」

卒業生の中を探しても、白いカッターシャツのみの上肢をした人間は自分だけだろうことは容易く想像できる。
そして、それを周囲の人間が不思議がり、担任辺りには理由を尋ねられることも。
考えられるだけの問題を考え抜いて、顔を顰め出した手塚とは対照的に乾は快活に声を立てて笑い、ばんばん、と威勢良く手塚の背中を叩いた。

「事前に相談しておかなかったお前が悪いな。俺なんかは、ほら、見ろ。事前に入念な話し合いをして、既に海堂と学ランは交換済みだ」

おかげで胴回りやら何やら、キツくて仕様がない。
そんな愚痴なのか、将又、俺の恋人はこんなに細いんだよ、という恋人自慢なのか、瞭然とした判断が付かないことを乾は笑ったまま言った。

「まあ、全部終わったら返してもらえるだろうから、それまでは辛抱、だな」

巣立ちの日にまずは忍耐からだなんて、先が思い遣られる。
僅かに倦み疲れる気持ちを覚えつつも、手塚は一歩を踏み出した。

彼の気がそれで済むのならば、多少の苦労を厭うのも已むを得ないだろう。
殊勝にも、卒業おめでとう、という月並みな祝辞を貰えたことだし。


















式直後の講堂出口にて。
薄いシャツ1枚で手塚をうろうろさせる方が危険です。
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