envy ME
手許に返された部誌を受け取り、顧問である竜崎はひとつ頷いて「いつもご苦労」と手塚を労い、見送った。
連れ立ってやって来た大石と連なって、手塚が職員室を辞そうとした時、
「ちょっとお待ち」
部誌のページを早速繰った竜崎が呼び止めた。去り際の一礼から身を正し、踵を返そうとしていた部長と副部長の二人組はぴたりとその動きを止めた。
訝しそうに、手塚は竜崎が座るその一角を見詰める。
「まだ、何か御用ですか?」
「あー…手塚はいいよ。そのまま帰んな。大石、アンタはちょっとこっちにおいで」
野良猫でも払う様に手塚へは手を払い、残留を命じた大石には何処か睨む様な険しい目付きを向ける。
凄みのある彼女のその表情に、大石は思わず肩をびくりと竦ませた。そして、隣の手塚を伺う様に横目で見るが、容赦の無い親友は顎を軽く竜崎の方へと刳ってみせた。
「大石、竜崎先生がお呼びだ」
「わ、わかってるよ……」
無情な男だ。
とぼとぼと、脱力した足取りで大石は竜崎の元へと向かった。後ろで、手塚の「失礼しました」という馬鹿丁寧な訣辞の声と、ドアがレールを走ってぴしゃりと閉まる音。
「ほれほれ、早く来んかい」
重い足取りを竜崎に急き立てられて、大石は小さな胃痛を感じ始めた。
どうも、彼女に呼び止められた頃から嫌な予感と胃の痛みが止まらない。
「なんでしょうか……」
それはそれは覇気の無い、弱々しい笑顔を浮かべて大石は竜崎の元へと辿り着いた。
職員室のドアから竜崎のデスクまで、こんなに長く感じた事は初めてだ。
山一つでも越えてきたみたいな、そんな妙な疲労感に、この時の大石は襲われていた。
「コレ、のことなんだが……」
厳めしい顔をして、竜崎はつい先程、手塚が提出した部誌のページを捲った。
広げられたそこは、昨日のページ。竜崎が今日、部活の時間迄に目を通さねばならない箇所。
目の前に現れた紙面へと、視線を落とし、そして、大石は硬直した。
「これは、どういうことかね?大石副部長?」
トン、と竜崎が指を突いた場所には、紙面の4分の1もの大きさを使って、何者かのテニスフォームがスケッチされている。
美術の時間初めに行われる、美術なりのウォーミングアップであるクロッキーの様な画風。
シャープペンのあのグレーがかった黒い芯先で、速写された人間が描かれていた。
何が描いてあるのかと、大石が注視する迄も無かった。それ故に、彼は竜崎がページを開いた途端に戦慄に襲われた。
テニスのハウツー本に出てきてもおかしくないくらい、綺麗なグランドストロークのフォーム。
今にもその手に持ったラケットで弾んだボールを打とうとしているその格好の主には、見目にも瞭然と判る程のトレードマークが頭にひとつ。
白いキャップ帽
部内でそれを身に付けている人間はたった一人。
言葉にするまでもなく、越前リョーマその人だった。
「越前……ですね、先生」
言わずもがな、のその人物の名を、敢えて大石は口にした。
罫線の走る紙面上で、ラケットを凪いでいるその人物の名前を。心痛がする、とばかりの途切れがちの口調で。
見りゃわかるわい、と縋る思いで呟いた先の顧問からは手厳しいお言葉。
「どうして、『これ』が『ここ』に描いてあるのか、と聞いている」
それを描いたのは大石では無い。なのに竜崎は彼に向かってそう尋ねる。
手塚が委員会や急用で部に顔が出せない時だけ、大石が部誌に記帳するが、それをほぼ毎日書いているのは部長である手塚だ。昨日も、手塚だった。
「あの……それは手塚に聞いてくださ……――」
「ばかだねえ、お前も。アイツが、のうのうと口を割るタマかい?」
「や…先生相手なら手塚でも流石に――――」
大石の話を聞く気があるのかないのか、竜崎は二度、彼の言葉尻を遮った。
理由を詰問したのは、竜崎からだった筈なのに。
「アイツにゃ前科があるんだよ」
忌ま忌ましそうな顔つきの女教師。
微弱ながらも笑顔を浮かべていた大石の頬が、ひく、と歪に痙攣を起こした。
「この事、に関して、ね」
遂には小さく舌打ちすらした竜崎に、怖ず怖ずと大石は尋ねざるを得なかった。
何があったんですか、と。
遠い目をして、竜崎は「一昨日の事さ」と昔話でも始める風に口を開いた。
年寄り…失礼、ご年配の方の昔話と着物の帯が長い事は世の常。大石は朝のHRが始まる時間を気にしつつも、竜崎の話に耳を傾けた。
竜崎に依れば、事件は二日前。部誌を手塚のみで持ってきた日に起こった。
いつものあの表情の特に無い顔で手塚は職員室の扉を開けて一礼し、きびきびとした足取りで竜崎のところへとやってきた。手には提出するべく持参してきた、竜崎も見なれた今年度の部誌。
「竜崎先生、失礼します」
そう声をかけられ、やあ手塚と気さくに返し、そして差し出された部誌を受け取った。
今日の様にわざわざ提出に来た手塚に労いの声をひとつかけ、それに対して手塚はその場で一礼し、来た時とまったく同じ小気味良いくらいの足取りで職員室を辞した。
そして、竜崎がいつもと同じ動作で、ページを繰り、書かれた内容に目を通したその時が、勃発の瞬間だった。
ページの一番最初に書かれた日付けは普通だった。その月度の数字、その日の日付け、それらがあの過剰な几帳面さを孕んだ文字で綴られていた。
問題はその隣。文責者の名前。
手塚の手の一画目の払いが書かれたそこから、突然、『越前』の文字が出現した。
おかしいとは思いつつ、単なる書き間違えだろうと無理矢理に結論付けて彼女は視線を進めた。
今日の欠席者、欠席事由、今日の部員とレギュラーの練習メニュー。そして特記すべき事項を書く大きな空欄。
その全てが、
越前リョーマのことで埋め尽くされていた。
手塚の文字が語るには、
・欠席者:越前以外の誰か
・欠席理由:越前にはきっと関わりの無いだろうこと。
・練習メニュー
越前:柔軟。体前屈が凄い。
乾の球出しでウォーミングアップ。全て乾の顔面ぎりぎりを狙って返す。上手いのだか、悪質なのだかよく解らない。4球目の返球は、踏み込みも腕の振りも最も良かった。
越前の他に何人かが加わって乾への虐待が苛烈化。越前が酷く楽しそうな様子。サディズムの傾向有り。
越前:6ー3でミニゲーム勝利。ゲーム初盤、右手で遊ぶから3ポイントも取られるんだ馬鹿め。
ゲーム終わりの小休憩に、零式を教えろと近寄ってくる。誰が易々と教えてやるか。上目遣いの越前には思わずぐっと来るものはあったが、何とか断り抜く。
袖を掴まれて猫撫で声で強請られるのは精神的に少々キツい。あの声は反則。
その点を越前に注意。にやりと笑ってからまた意図的に同じ事をやり出したのでグラウンド10周を命じる。
練習時間が減る為、何が何でも2分でやってこいと告げれば、無理だと一蹴してくるので、3分で妥協。
暫し、猛烈な勢いでグラウンドを駆ける越前を監督。
息を乱して汗を流している越前は、少し……何と言うか…アレだ。色気が凄まじい。
諸々。等々。
筆舌では尽くしがたいくらいの越前に対するコメントや、彼のその時の素振りなど、事細かに明記されていた。
ミニゲームの描写では、スポーツ記事顔負けな程、事細かく。相手の打球に対してリョーマがどういう視線の動かし方をしたか、前後左右どちらに何センチ、何メートル動いただとか。グリップを握り直したならば、元の位置からどちらへどれだけ動いたか。仕舞いにはどういう計測方法を用いたのかは不明だが、スマッシュの際、体を何度傾かせたという緻密なデータすら記載されていた。
越前、というその単語が紙上に犇めきあっていて、途中まで読み下した竜崎が言葉を失ったのも仕方の無い事。
その日の昼休みに、竜崎直々に手塚を呼び出し、質してみれば彼は悪びれた様子を一切として見せずに、
「お言葉ですが、昨日はそれが全てです」
さらりとそう言った。いつものあの無表情のままで。
これが?と不審な顔でもう一度尋ねれば、毅然とした態度で首を縦に下ろす。
他の者のことは?と追求すれば、存じません、と即答。
その後も、幾つかの疑問をぶつけるも、知らぬ存ぜぬと手塚は返す。越前の事にのみ、肯定してみせて。
最終的には、竜崎が折れることで決着した。もういい、と竜崎が言うや否や、礼儀正しくぺこりと腰を折り曲げて一礼して見せ、失礼します、と馬鹿丁寧な声を残してその場を辞して行った。
そんな事があったせいで、今回は大石へと白羽の矢が立てられた、という事の次第。
一通り聞き終わり、大石は泣きそうに顔を歪めた。
前回は越前リョーマレポート。そして今回は越前リョーマの素描。
そんな哀れな副部長へと、顧問は追求の手では無く、愚痴を散々にぶつけ、HRの予鈴が鳴った頃に漸く解放してくれた。
失礼しました、と蚊の鳴く声で賑やかになりだした職員室を大石は出た。
キリキリと、胃が嫌な音を立てていて、思わず手を腹部に宛てがう。それで、痛みが和らぐことが無いのはもう周知なのだけれど、そうせずにはいられない。
「終わったか?」
その場に蹲りそうな程に痛みが増して身を屈めた折、突如として頭の上から淡々とした声が降ってくるものだから、大石は勢い良くそちらを振仰いだ。
脂汗が滲み出している自分とは裏腹な、涼し気な表情の手塚が扉脇の壁に背を預けてこちらを見下ろしていた。
「て、手塚…っ、アレは、どういう意図でお前…っ」
噛みかからんばかりの威勢で大石は屈めていた身を立て直し、手塚と対峙を決め込むが、そんな大石を置いて、手塚は壁を離れ、ゆったりと廊下の先へと歩き出した。
大石も、慌てて手塚の後に続く。
「手塚…っ」
「値打ちのある物を手に入れると、周囲に見せびらかしたくならないか?」
焦燥した大石の声など何処吹く風とばかり、手塚は真っ直ぐに前進を続け、そう言った。背後の大石を振り返ることもなく。
予断も無い突然の話題。
本当に突然過ぎたその声を思わず大石は聞きそびれ、「え?」と戸惑った様子を見せた。
ここは、本来ならばあの不作法に関する弁明の言葉が遣ってくるものだと、大石は当然の如くに思っていたと云うのに。
階段の手前でぴたりと手塚は不意に足を止め、悠然とした動作で大石を振り返り、薄笑いしてみせて、
「俺には、そういう周期が時々ある」
それがアレだと、手塚は大石に悪戯の真意を告げた。
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ENVY meの中学校版。
悪女説はこの時からこっそりと。主に大石の中で。
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