新しい靴を履いて
靴を買いに行こう、とある日の朝にリョーマがやって来た。
夏休み。明日からは、全国の猛者が集まる大会が開かれる日。手塚が帰郷した翌日でもある日。
開いた玄関の扉の向こうで、にんまりと口角を吊上げた後、それ以上、何かを言う前に手塚の腕を取った。
何とか爪先で靴を引っかけ、剣呑な足取りでリョーマの後をついていく。
まだ真上までは遠い太陽の下、手塚を強引に連れ出したまま、忙しく駆けるリョーマの背中に、どうしてそんなに急いでいるのかと尋ねれば、午後から部活でしょう?と彼としては珍しい、と言えば失礼だけれど、兎に角、尤もな返答が返ってきた。
「それは、そうとして……どうして、いきなり靴なんだ?」
そして、この手塚の問いも、至極尤もなもの。
そんな謎に、全速前進を続けたまま、リョーマは返事をくれてやる。入学当時から散々、手塚に走らされているせいで、喋り乍らでも、呼吸はそうそう乱れる気配を見せない。
「だって、明日からでしょ。全国大会」
「そんなに靴が草臥れたか?」
確かに、関東大会までの試合だけでも随分と靴は使いこんだけれど、今、家の靴箱で休ませているあの靴は、愛着を含んだまま、まだまだ履ける状態。
それでも、必要だと判断した。母親を何とか宥め透かして小遣いも手に入れた。
走り抜ける風に髪を玩ばせたまま、くるりとリョーマは手塚を振り返る。
その目は、少しばかり楽しそうに細めて、そうじゃないよ、と口許は苦笑した。
「心機一転。大切でしょ?そういうの」
解んないだろうけど、髪もちょっと切ったんだよ。
手塚の腕を握った手とは逆の手で、毛先を摘んでみせる。それが今迄より短かったか長かったか、判別がつかない。僅かその程度だけれど、切ったんだよ、とリョーマは繰り返した。
反復される程に、どうも訝しい顔付きをしてしまっていたらしい。
「地区大会の試合から全部、アンタの夢を叶える為の道程だったけど、明日からは、ホントに後もう一歩になるんだよ」
アスファルトの上を駆ける足音に乗せて、またリョーマは前方を向いたままでそう告げる。
真夏日にまだ照らされていない舗道に、二人分の靴音が高らかに響く。
「オレが、アンタの夢を叶えてあげる」
栄誉を宿した優勝旗も、観衆からの喝采も、全てを貴方の為に。
後ろから眺めるリョーマの項が、若干、赤味を帯びて見えるのは、延々、全速力で手塚を引いたまま走り続けているせいか。将又。
「ライバルは他の学校の奴らだけじゃないよ。先輩達も、立派なライバルなんだから」
「アイツらが?」
全国大会に際しては、宿敵と言うよりは、優勝に向け、共に切磋琢磨する仲間、の方が手塚としては的確だと思うのだけれど。
「総合的に見れば、あの人達の力も借りるけど、アンタの夢は、」
きゅ、と腕を握られていた手に力が込められるのを、手塚は感じた。
ただでさえ、熱い子供体温のその手が、いつもよりもずっと熱い。
全国、と言葉にするだけで高まる興奮からなのか、走行による血流の良さからなのか。将又――――、珍しく、照れてでもいるのか。
「オレだけが、叶えてあげる」
後ろを振り返りもせず告げる、手塚からは見えない顔が、いつものポーカーフェイスが崩れていればいいと、天の邪鬼に手塚は思う。
誓いを立てるこの瞬間は、珍奇に赤く顔を染め上げていればいいと。
「是非、励んでもらおうか」
「もち」
語調ばかりは強気な小さな背中に、くつりと小さく笑い、急ぐぞ、と言い置いてから、手塚はスピードを上げた。
願い続けた、夢へと走れ。
新しい靴を履いて。
全国優勝こそが、わたしの願いでもあるわけですよ。
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