始まりのキスは目を閉じて
「あの……」
同じベッドの上、真向かいで正座をしたままの手塚の肩に手をかけたまま、リョーマは遠慮がちに声をかけた。体勢は手塚側へとやや前のめり。
視線を辿々しく動かして、それだけで手塚はリョーマの言葉の先を尋ねてくる。
「あのさ……」
困り果てた顔で、リョーマはまた同じ言葉を繰り返し、空いた逆の手で手塚を指差した。
「目、閉じてくれないかな?」
これから始めるから、だなんて、このシチュエーションでなんて間抜けな言葉だろうかと、リョーマは頭を抱えた。
間抜け以上に、何だか情けない。言葉以上に、恋人との性交渉との前にベッドの上でこうして膝を付き合わせている事自体が。
手塚の普段の素行から、家の躾が厳格な事は知れていた。知れていたけれど、まさか相手のバージンを貰うに至ってこんな粛々とした空気はないだろうと思う。
普通は、”いい雰囲気”になったら自然と傾れ込むものなのだろうに、リョーマ自身も今迄の交際ではそうであったのに。
甘い筈の行為前の空気が随分と乾燥して思える。梅雨の時期も盛りで、室内も屋外も湿度が高い季節だというのに。
なんなんだろう、と、リョーマは訝し気に手塚の目を覗き込んだ。
その奥は、珍しくきょろきょろと忙しい。
「目、閉じたら?」
中学テニス界に名を馳せるこの人が、目の奥だけでとは謂えど落ち着きをやや失くしてしまっている様はリョーマの苦笑を誘った。
「閉じたら、オレも見えなくなって緊張もちょっとは緩まるんじゃない?」
「…………閉じ…………られない」
「え?」
きょろりきょろりと視線を泳がせてから、蚊の鳴くが如き声で告げられたせいで、リョーマは手塚の言葉を聞き逃した。かくん、と不思議そうに小首を傾げれば、朱色の絵の具をぶちまけたとでも云わんばかりの紅潮した顔の上で、手塚の目がじとりと睨んでくる。
「…閉じられない、と言っている」
「なんで?」
率直な疑問。そしてそれを有りの侭に当人へとぶつける。
また、目が泳いだ。何かを言い躊躇っている風に見える。
キスを初めて強請った日も、こんな顔をしていたことを未だリョーマは覚えている。
あの時は、結局口説きに口説き落として、海の向こうでは挨拶程度の軽いキスをさせて貰った。
過ぎ去ったあの日宜しく、たっぷりと手塚は右に左にと焦点を不定にさせて、結局、膝の上でいつの間にか握り締めてしまっていた拳へと落とした。
「…お前、これから犯される人間の気持ちにもなってみろ…」
「犯さ……………」
思わず、リョーマは絶句。言うに事欠いて、何て事を言うのだろう。
ちゃんと和姦なのに。
手塚の肩へとかけていた手を一度離して、手塚を模倣するかの様にリョーマも膝の上に手を置いた。
「今日までに覚悟はつけてきて、って前もって言ったよね?オレ」
「………ああ」
神妙な顔付き、恐々とした声音での手塚からの反応。
今にも口を突き破って出ていきそうな溜息を精一杯の力で飲み込んで、リョーマは続けた。
どれだけ、楽しみにこの日を待ち望んでいたと思っているのだろうか、目の前のこの恋人は。
「で、アンタが始める前にこうしようって言ったんだったよね?」
膝を付き合わせて、お相手仕りますとばかりのこの態度。
リョーマが確認した通りに、確かにこのザマは手塚からの要望の末で。
事実を無根拠に否定する程、手塚も子供ではない。それでも、抗いの気持ちがあるのか、素直にこくりとは頷かなかった。
静かに静かに、酷く緩慢にやっと首を縦に下ろした。
咽喉を通らせた筈の溜息が、また歯列をドンドンと手荒くノックしてくる。吐き出したい気持ちを、ここはぐっと堪えて。
リョーマは再度、手塚の目の最奥を覗き込んだ。怯みたいけれど、先天性のあの性格故に怯めないでいる手塚の影がちらつく。
次の言葉まで、長い体感時間が過ぎた。
「あのさ、オレも知らないわけじゃないから」
「……何を?」
「部長が言うとこの、犯される前の気持ち、みたいなの」
そう告げ終わった途端に、部屋の空気が音も無く変貌した事を、リョーマは悟った。
先程までは、ぱさぱさと無味乾燥した空気だったというのに、一瞬にして、殺気染みた、肌が思わず粟立ってしまう様な空気の流れへと変わった。
真向かいの手塚の目の色も同様の変化を来していた。
「……訊いてもいいか?」
「…ヤだ」
「訊かせろ」
「命令形かよ…」
ならば、こちらの意思確認など、必要ないではないか。
険だらけの手塚の前で、リョーマは畏縮せざるを得なかった。顔付きが、鬼部長のものが混じり始めている。
「どうして、今の俺の気持ちが解る?」
「や……あの、それはほら…」
「答えは、ひとつしか無いな?越前?」
目が、合わせられない。
視線が泳ぐのは、今度はリョーマの番だった。
てっきり、さらっと流してくれると思った故の発言であったのに。計算違いもいいところだ。
ちゃんと嫉妬に燃えてくれる人だった事実判明は、嬉しい誤算だけれど。
この空気が、耐えられない。…痛い。
「お前も、体験済み、というわけだな。俺が知らない何処かの馬の骨と」
「人間、色々体験しなくちゃだし…」
「そうだな。経験を積まないと立派な大人にはなれないな」
「で、でしょー?部長もそう思――」
「だが…」
膝の上で大人しくしていた手塚の拳が、ベッドを叩く。ベッド以外の床ならば、さぞかし良い音がしたであろうキレのある垂直の動き。
スプリングの上を覆う幾枚もの布が、ばふっと鳴いた。見えない埃がきっと立ち上っている。
「今、その発言をする事のデリカシーの無さを解っているのか?」
「…は、スンマセン…」
「大体、お前は日頃からその部分が欠けている。俺との事以外でもだ。事ある発言は相手を激昂させたり、また時に落ち込ませたりしている。レギュラー陣は精神面がタフな連中ばかりだが、日頃精神の鍛錬をしていない一般の人々からすれば敬遠されることはまず間違いない。不作法な事が前衛的だと思っているのなら、確実に正解だとは言えない。寧ろ、礼儀作法を学び、体得し、そして相手と向き合った方が失礼に当たらないパターンの方が多い。ここで自分が日本育ちではないから、等と言う戯言は通用せんぞ。今、お前が住んでいるのは日本の土地で、お前が吸っているのは日本の空気だ。郷に入りては郷に従え、という言葉があるようにだな、多少は郷のルールに添う工夫も必要だと思うわけだ。お前の傲岸さ、不適さ、無礼さはひとつの魅力ではあるが、諸刃の剣でもあることをそろそろ自覚してだな―――――」
くどくど。くどくどくどくど、と、寡黙という定評を周囲から受けている筈の手塚は饒舌に説教を垂れた。
最初の方でこそ、畏まって耳を傾けていたものの、何時迄経っても、終わりの兆しを見せない手塚の一人弁論大会に、ふと我に返った。
二人が座しているのはリョーマの部屋。そのベッドの上。家人(猫含む)は都合良く全員出払っているこの好条件の中――しかも念願の特約を取り付けた決行の日――、何をしているのだろうかと、もはや念仏にしか聞こえない手塚の声を両耳に貫通させ乍ら、リョーマは恋人の顔を見上げ、2度は奥に引っ込んだ溜息をやっと排出して手塚の両肩に手を掛け、一気に押し倒して唇を深く吸った。
「始まりのキスの時は、目閉じてもらわないと」
雰囲気出ないよ?
いつもの不敵な笑みを浮かべ、リョーマは手塚を喰らい始めた。
手塚の小言はいつしか、未だ発し慣れていない甘い声へと変わっていた。
始まりのキスは目を閉じて
お初ネタで書きたいこと、つかシーン?はまだまだ盛りだくさん抱えてたりします。
そしてリョマさんは男にも女にも成れる子だと信じて疑いません。それでもリョ塚派閥民です。
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