毛先からの水の滴りの間から、手塚は真正面にある自分の双眸を見据えた。
顔にも水滴を混じらせ、掴む手は洗面台の縁。

目の奥には、きちんと臨戦態勢の自分。映る瓜二つな自分の目の更なる奥にも自分。鏡と現実の己の瞳の奥には無限もの手塚の姿がある。
そのどれにも、気負いした影は映ってなどいない。

よし、とその様に深く頷き、傍に掛けてあったタオルで滴った前髪と顔とを拭う。気分が清々しくなっていくその途中で、タオル越しに手塚は自分の唇に触れた。

つい先刻、塞がれたばかりの其所。濯ぎきった筈なのに、まだ感触が残っているように思う。
強く、手塚は其所をタオルでは無く、拳で拭った。

嫌だった。触れられたことが。
気持ちが悪い訳ではない。虫酸が走る様な嫌悪感がする訳ではない。そうではなくて、ただ、『嫌』だった。
リョーマに唇を攫われた事が。

「………」

不意にタオルを元の場所に返し、正面の壁に嵌め込まれた鏡をまた見直した。映る像は変わらない。鏡の中には手塚しかいない。
大丈夫、とその己に言い聞かす。大丈夫だから、とどこか宥める様に。

百戦錬磨の自分だ。記録に残る公式試合も、記憶に残る非公式な戦いも、全て勝利を収めてきた自分だ。
県下でも、全国でも、名は通っている筈。ただの驕りではなく、歴とした事実。裏付ける証拠は幾らでもある。試しに同窓のあの連中に電話して確かめてみたっていい。

大丈夫だ。
今度は声に出して、手塚は呟く。言葉は呪いだと、以前に何処かで聞いた。一種の暗示の様なものだ。
心で繰り返し、言葉で繰り返せば、きっとその威力は増す筈。手塚は言葉を反復した。

大丈夫、大丈夫。
信じればきっと願いは叶う。叶わなければ願う意味すら見出せない。
絶対の勝利を信じ、そして視界を占拠する虚構側の自分の視線と約束を交わす。負けない、と。

「…奪い返してやる」

蛇口のコックを捻り、猛勢と出て来た流水で、手塚はまた顔を洗った。









「…ただの言葉のアヤだったんだけど………」
「うるさい」

湿っている前髪を見留めて、ゲームの手を止めたリョーマはドアを振り返った格好で呆れた顔をした。
そんなリョーマに、憮然とした面持ちで手塚はずかずかと歩み、リョーマの隣まで来ると彼の顎を指先で持ち上げた。
先程までの顔を収めて、今度は、に、と不敵に笑ってみせるリョーマに、確実に闘志の火はついた筈だった。

けれど、矢張り体はこの部屋を一度後にする前同様、理想通りには動いてくれなくて。
無自覚に顔に熱が集中してくるのが解る。

コントローラーを握ったまま、リョーマはフリーズした手塚の指の上に大人しく顔を置いておいてやる。余裕の笑みは変わらぬまま。
待つ事、1分、2分、3分。
チクタクと時計は暢気に足音を立てて通り過ぎていき、カツンと一際大きく針が鳴った5分目に、リョーマは耐えきれなくて肩を震わせた。怖いくらいに視線を研ぎ澄ませて見下ろしてくる癖に、行動に移れていない手塚が可笑しくて。

「顔洗って出直してきて、そのザマ? まだまだだね」

色んな意味を込めて、己の常套句を手塚に告げると、コントローラーから手を離して代わりに手塚の後頭部を捕らえた。
そのまま、少しの力で引き寄せて、本日、二度目のキスを掻っ攫う。御子様を揶う程度の、おもちゃみたいな口吻け。

「おとといおいで」

手塚を引き寄せたその手で、頭を撫でてやって、仕上げとばかりにぽんぽんと軽く手塚の頭の上で弾ませてやる。
そのままあっさりとゲームの続きに戻ったリョーマの横顔を睨みつつも手塚は隣に腰を下ろして、抱えた膝に顔を埋めた。拗ねた子供の様な素振り。

触れられる、のではなく、触れるキスをしてみたかったのに。
自分自身と交わした勝利の約束は、結局、視線『だけ』で終わってしまった。

軽快にボタンや十字キーを操作するリョーマの言葉に従うのならば、次はタイムスリップをしなくては。
時間を遡って一昨日に辿り着く方法を手塚は膝頭に埋めた頭の中で模索するのだった。



















視線だけの約束
初心い塚はキスのひとつも満足に出来ないところがスタートライン。手は頑張れば繋げるみたいな。…甘酸っぱいお年頃ですから15歳。
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