残された刻印
痛いくらいの甘い刺激に小さく身体を反応させた手塚の顔を、彼の右手首から離した口と共にリョーマは見上げた。
「オレのこと、忘れないで?」
出て来る台詞は可愛らしいとも言えなくない殊勝な調子。だけれど、それを紡いだ口が手塚の手首に付けたのは、えげつないくらいの色をした深く紅い一点。
今日は、手塚の宮崎旅立ち前日。
部への顔出しも済み、さあ帰ろうかというその瞬間にリョーマに呼び止められた。
明日は見送りには行けそうにないから、と前置いた上で、唐突に右腕を取られその手首に噛み付かれた、基、吸い付かれた。
手塚がその時間を長い、と感じる通り、それはいつものキスマークの行為以上の時間を費やし、そして、その結果が今、右手首に残るこれだ。
内側の、皮膚が日に焼けず白にも近い部分にぽっかりと浮かぶ紅灯。柔らかい皮膚の部分であるからこそ、常からもリョーマにはよく跡を付けられていた部分でもある。
微笑したまま、こちらを見上げてくるリョーマを一瞥してから、手塚は大きく溜息を吐き出した。
なんて、子供染みた真似を。
「…お前でもこんなベタな事をするんだな」
「だって、遠距離恋愛って初めてなんだもん」
「一人前に不安なのか」
「まあね」
そう言ってリョーマは肩を竦めてみせた。
非常に失礼な話かもしれないが、リョーマの辞書に不安の文字があることが、正直手塚は意外だった。
そんな手塚の胸中を見通してなのか、僅かに空いた二人の間に、リョーマが少しだけ不服そうな顔をしてみせる。
「お守り?うん、そう、お守りみたいなもんだよ。それ、消さないで帰ってきてね?」
「…消すなと言われても…」
今は鮮烈な程に赤々としているけれど、その正体はただの鬱血痕に過ぎず、時間を隔たせれば自然と消えていってしまうことは明白。
それを維持してまたリョーマの元へ帰って来いと言われても、手塚は返事に窮してしまう。
右手首の点を見詰めたまま、さてどうしたものか、と考え倦ねている手塚へ、リョーマはとんとん、と患部を人差し指で小突いた。
何かヒントでもくれるのかと、手塚は視線をリョーマまで上げる。
「毎日、上書きすればいいんだよ」
「…お前、俺に向こうで愛人を探せとでも?」
毎日、手首にキスマークをくれる様な手練た浮気相手を。
詰責してくる険しい視線を受け止めつつ、リョーマは逆に手塚のその発想に目を屡叩かせた。生憎と、二股三股を許せる様な寛大というか、不誠実な性格では無いというのに。
「違……そうじゃなくて」
あー、もう、と苛立った様に自分の髪をくしゃくしゃと掻き回した後、本当に解らないの?とリョーマは手塚を見上げた。それに対して、少し考える間を取ってから、手塚はこくりとひとつ頷く。
「そろそろ、こういうことにも賢くなって欲しいんだけどな………まあ、いいけどさ。個人差だし」
ぶつぶつとそう愚痴を零しつつ、乱したばかりの髪を一度直して、そのままの手でリョーマは手塚の右手を掴んだ。そしてそのまま、それを手塚の口許へと運んで行く。
「自分で、痕付けてって言ってるの」
「自分で?」
「そ。そうしたら、毎日、オレのこと思い出すでしょ?夜につければ昼間はその痕見て思い出してくれればいいし。昼に消えかけてきたらこっそり付け直してくれればいいし」
オレとアンタだけの秘密と繋がりだよ。
そう告げてきたリョーマは、もう楽しそうな顔をしていた。
手塚は、近付けられた己が手首を凝っと見詰め、それから何故か小首を傾げて、リョーマに尋ねた。
如何わしい痕跡とは対極的な、酷く幼稚な質問を。
「…それは、間接キスにならないか?」
直にキスも、それ以上の事も既成事実としてあるというのに、どういう意図でそれを尋ねてくるのか、一瞬のうちにリョーマには判じられなかった。が、何故だか可笑しかった。
旅立ち前の最後の最後で、何とも彼らしい。つい、名残惜しくなってしまいそうになる。
「なるよ。なるけど、それもいいんじゃない?偶には。つつましくてさ」
「…そうか」
一応の納得は得られたらしい。手塚がこくんと頷いたのを見留めてから、リョーマは手塚の手を離し、代わりに自分の左腕を彼の眼前に突き付けた。
「オレのにも、付けといてもらえる?」
「他の誰かに上書きさせるなよ?」
差し出された腕を掴みつつ、窺う様にしてそう告げて来た手塚に、まさか、とリョーマは破顔した。
「こっちでも間接キス楽しむだけ」
「ならいい」
リョーマの答えに満足そうに首をひとつ縦に下ろした後、御要望通りに手塚はリョーマの左手首の辺りに唇を落とした。
まだ辿々しい素振りゆっくりと吸い上げ、そっと離したり、また吸い上げたり。施してくれるその様は恐る恐る、という気配が抜けないものではあったけれど、目蓋を落として唇を落としてくるその格好は恭しく傅かれている様で、リョーマの脈はいやに早まった。
手を持ち上げて、そこに唇を埋めているだけの仕草なのに、どうしてこの人がやるとこうも鄙俗らしく見えてしまうんだろう。
そう見ている自分が鄙俗らしいのか。
ふとそう思い至って、密やかにリョーマは苦笑を漏らした。
果たして、これから先、間接キス程度で穏便に過ごしていけるかどうか。そういう意味でも、やっぱり不安かもしれない。
「できたぞ」
手塚の声で、リョーマは頭を巡らせていた夢想を止めた。
返された左手を見てみれば、オーダー通りの赤い刻印がひとつ。
「ありがと」
出来上がったばかりのそれに、早速リョーマは唇を落とす。
間接キスも、そう悪くは無いのかもしれない。その度に、さっきの手塚を思い出すのだろうし。
悪くない。
に、と口角を上げて、腕から口を離せば、お前早過ぎるだろう、と手塚に窘められる。
目尻にやや朱が差していたりして、そんな反応がリョーマの心を擽ると共に、旅立ちへの後腐れを増させた。
此処に、留まらせることは無理だとは承知しているのだけれど。
そんなリョーマも、先の通りにお見通しなのか、ガキだな、と一笑に伏した上で、反論しようと咄嗟に上を向いたリョーマの唇をあっさりと手塚は奪った。
「行ってきます」
まだぱちくりと目を瞬かせるリョーマを前に、赤い刻印が残された右手首にもキスを落とし、そう手塚は告げてくる。
もう堪えきれなくて、盛大に笑い声を上げてから、
「行ってらっしゃい」
リョーマも大きく背伸びをして、手塚の襟許を手繰り寄せて一時のお別れのキスを差し出した。
唇に見えない印と、お互いの手首に真っ赤な印とを刻んで、再会までの約束は残された。
残された刻印。
残る、残すと言えば、あー、やっぱ巷にありふれるけどこれかなあ、と思って一筆。
明るく前向きにさよならを言える二人が好きです。さよなら、の次には、じゃあまたね。
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