misstake
















いつもと違う道を辿って帰ったある日、あるものを遠くに見つけて、リョーマはその場に立ち尽くした。
そしてぽかんと口を開いて上を見上げ、急いで爪先の方向を翻した。



このまま真っ直ぐ行ってしまえば、自分の家へ着いてしまう。帰路の定義としては頗る宜しいけれど、そんなことをしている暇は無い、と思った。
もっと速く、もっと急いで。ああ、もう、どうしてこんな時に足の裏にターボジェットが付いていないんだろう。
アトムならものの数秒だろうに。こんな距離。

人間の不遇さを恨めしく思い乍ら、リョーマは赤信号も大荷物を背負った老婆も見捨てて、その道を―――手塚邸へと続く道を駆け抜けた。










草木、花々、生きとし生けるもの全てが春へと右に倣えをするこの馨しい時期限定の端正な庭を眺め乍ら、手塚は青柳茶をこっくりと悠然として飲み下した。
碁盤を挟んだ向こう側にはこちらが差した一手を前に、懊悩する祖父の姿。
高等部への進学の前の春休み。この時期を、手塚は満喫していた。

春嵐は1週間は前に過ぎ去り、来るべき季節の始まりに陽も次第にまあるくなってきていて、縁側の戸を開いてのんびりと過ごせる。
平日の昼間、世間が忙しく活動する時間をのんびりと過ごせるのは中々に幸福な事だ。妙な優越感がある。

そこに加えて、自分と同じ様に時間を持て余している祖父は良い遊び相手だ。
碁も将棋も、祖父はそこそこに腕が立つものだから、飽きることがない。ああして、頭を悩ませさせる迄に成長した自分も、何だか誇らしい。

「お爺様、まだですか?」

ゆったりとした動作で手の中の湯飲みを下ろして、そう尋ねれば、まだ待て、という様な返答がやってくる。
ではもう一服。流麗な庭と素朴乍らも口福な嘉肴でも楽しませて頂こう。

少し失礼しますよ、と祖父に声をかけて、手塚が縁側の其所から立ち上がった瞬間、閑静な時間は唐突に終わりを告げた。

手塚の方向感覚が狂っていなければ、我が家の玄関口より。


ピンポーン。ガチャリ。あら越前くん。彩菜さんコンニチハ。部長居ます?国光なら縁側でお義父様と碁を打ってるわよ。エンガワでジイさんとゴ?まぁたジジむさい遊びしてー……


ああ、さよなら幸せな時間よ。

次に待ち受けるものが何なのか、予想、というよりも結果を知りつつも、手塚は襖を開けた。
そう言えば、先程、庭を鑑賞している最中に遠くの寺の鐘が鳴っていたような。つい少し前まで、太陽も真上の昼だった筈なのに。
斯くも有意義な時間とは光の如き速さであるのか。

悲嘆の水溜まりに爪先を浸け始めた手塚を迎えたのは、

「部長、ちょっと来て」

どこか忙しない雰囲気の越前リョーマが一人。そして向かいに普段の笑顔のままの母親も一人。
突如とした外への誘いに、手塚は不機嫌そうな顔をしてみせて、リョーマを見下ろした。

「祖父と勝負の途中だ」
「じゃあどうして今、ここに居るのさ。試合の途中で席を立つなんて、アスリートとしてどうなの」
「碁の世界ではよくあることだ」
「理屈は聞かないよ。オレが小難しい日本語が嫌いなの知ってるでしょ」

ほら早く。急いでよもう。
ぐいぐいと袖を引かれる。その袖の先から伸びた手には、おかわりをと思って持参してきた薄藍の湯呑み。
どうしてこのタイミングで席を立ってしまったのか、つい先刻の自分に悔いを覚えつつ、手塚は自然釉の茶器を母親へと渡して、三和土へと下りた。
自分からは決して退かない性格のこの相手のお望みを叶えてやるのは、出逢ってからもう何度目になるだろうか。

どうして忍耐を強制される年上でなぞ生まれついてしまったのか、自分の境遇に軽く舌打ちをし乍ら、手塚はリョーマと共に自宅の玄関扉を潜った。










ばたばたとやけに急ぎ足で前進するリョーマに、宛ら手綱代わりに袖口を握られ、手塚はリョーマが踵を返したあの場所に立った。
何の変哲も無い、アスファルトの舗道。周囲を民家が囲い、塀が道の輪郭を造る。
本当に、何か特別なものなどない。
普遍的な日本の風景。電柱も等間隔に生え、暮れなずむ空の少し手前に電線が走り交う。その更に先を、リョーマは指をさして、弾んだ声音で「ほら」と言った。

「白いハトの群れ」
「……?」

リョーマの指先を辿る。辿って彼方を見てみる。けれど、手塚には鳩の一羽どころか、鴉の一羽も発見できなくて。
大層に不思議がって小首を傾げた手塚に、リョーマも奇妙がった顔をした。

「眼鏡、忘れてきてないでしょ?見えない?ハト」

あそこだよ、と背伸びをして尚も指で指し示すけれど、手塚の目に映るのは精々、塀の上から伸び出た民家からの庭木の先程度で。
お前こそ、目は大丈夫か、と非常に失礼な台詞を手塚はリョーマにぶつけた。

「アンタこそ、だよ。もっとアントシアニン摂ったら?ブルーベリーとか」
「家は和食がベースだからな。和食にブルーベリーは食い合わせが良くないだろう。そうだ、こんな話を知っているか、どこかのバカが和食とブルーベリーを一緒に摂ろうとして、ミルク粥の中にブルーベリージャムを入れたんだ。大層、不味かったらしいぞ」
「知るかよ。そんな話。アンタじゃないの?それ」
「生憎と、我が家でブルーベリージャムはもう何年も見ていないな」
「って言うかブルーベリーの話なんていいんだよ、今は」

そうじゃなくて、とリョーマは逸れ始めた話題の軌道修正を図った。

「あの赤茶の屋根の家のとこのさ、」

具体的な物の指し示し方に、手塚もリョーマが述べた特徴を持つ家屋を探した。
曲り角の少し手前に、確かに赤茶色の屋根をした2階建ての家が在った。

「塀の上から伸びた木の上に――――」
「……越前」

手塚が立つ位置からでは、随分と小さく見えるその木の枝のシルエットをなぞる様に垂直に動かされるリョーマの人差し指の先を、不意に掴んで、手塚はその動きを止めた。
リョーマが指し示したいものは、漸く、手塚も解った。解ったけれど、リョーマが告げたものとは一致しない。
白い鳩の群れなんて、木の枝の先には居はしない。そこに在るのは、芽吹き始めた楚々とした純白の花。

そういえば、リョーマが日本に渡ってきてから1年も経っていない。彼にとって、日本の弥生月はこれが初めてだったことを、手塚は思い出した。

「白木蓮は、初めてか?」
「ハクモクレン?」

きょとん、と、リョーマは目を屡叩かせて苦笑混じりの手塚を仰ぎ見た。

「お前が鳩と勘違ったアレだ」

白い鳩と早とちるとは、中々に風情な勘違いかも知れない。
確かに、遠目に見れば、白い鳥が止まり木している様子に見えないこともない。
間もなく、開花するであろう手塚とリョーマの視線の先のそれらは、まだずんぐりむっくりとしていて、花だと知らない人間からすれば蕾の終わりだとも気付けないだろう。

「…アレ、何?」
「花だ」

俄には信じられない、とばかりに、「花」とリョーマは手塚の言葉を反復した。
彼の『花』の定義からすれば、随分と規格外の大きさなのだろう。手塚が正答を教えてやった瞬間に、腑抜けた様子だ。

「まあ、まだ開き切る前だがな。中々にいい香りがするぞ。あれは」
「初めて見た…」

それはそうだろう。
呆気に取られて立ち尽くすばかりのリョーマの指先を離してやる。
確か、あれは中国が原産だった様に手塚は記憶している。アジアンテイストのする姿形だから、欧米の軒先に咲いているイメージとも程遠い。
透き通るまでの眩いあの白の色は『こちら』の国の特別な色だ。

「で?」
「で?って?」
「わざわざ俺を連れて来た理由を尋ねている」

ああ、と未だ些かぼんやりとした雰囲気を残し乍ら、リョーマが零す。

「結婚式用に捕まえようと思って」

ぽかりと口を開くのは、次は手塚の番だった。

「ハト。チャペルから飛ばすのに格好の小道具じゃない。白いし、すごい丁度いいと思って」

それでも、高い木の枝の先だから、自分の身長だけでは到底届かないと思ったから、とリョーマはあっけらかんと理由を述べた。

「越前……」

手塚は顳かみの辺りを押さえた。どこから、思考に矯正をかけるべきかを、考え倦ねたものだから。
けれど、手塚の偏頭痛に気付いているのかいないのか、酷くさっぱりとした様子に立ち戻ったリョーマは手塚の手を引いて、前に進んだ。

「そんなに都合良く、白いハトなんて落ちてないよね。そうなんだ、あれ、花なんだ。ふぅん」

てくてく、すたすた。
手塚を引き連れて、リョーマは塀からはみ出た純白の木蓮の下に行き着く。そして、今度は真上を指差して、

「取って」

記念だよ、と笑顔で告げる。

人の家のものだから、と諌めたところで、どうせ無駄だろう。この世の全ては、どうせ彼のものなのだから。
自分への言い訳とばかりに、心の中でそう呟いて、手塚は上背を伸ばし、まだ咲き切っていない彼女達のうち、至近距離に居た一人にそれまで患部を押さえていた指先を伸ばした。

手塚の未来さえも彼の世界の範疇に含まれている事も知らず、その日の記念に二枝、手塚は白木蓮を手折った。


















misstake。ちょっとした見間違い。
すいません。体験談を盛り込み過ぎたデス…。
白木蓮の咲く前の姿を、鳥があんなに!とうっきゃきゃしたのはわたしです。近付いて、あ、違うわ、これ花だ、って気付きました。
ミルク粥にブルーベリージャムを入れてアントシアニンを和食で摂取しようとしたのもわたしです。一口食べて、これダメだ、と気付きました。

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