herb bath
週末である土曜日に、行ってきますと玄関扉を潜りかけた手塚を、母親がちょっと待って、と引き止めた。
振り返えれば、奥のリビングからぱたぱたと駆けつつ、
「越前君のおうちに行くのよね?」
そう尋ねられた。笑顔で。―――元から、笑顔が常な人だけれど。どこかの同学年の輩と似て。
出掛けの行き先を、母親に秘密にする謂れは無い。別に、疚しいところへ行く訳ではないことだし。
だから、手塚は「はい」と肯定した。母親の顔が更にパッと微笑んだ気がした。
「じゃあ、これ持って行って」
変わらぬ笑顔のまま、母親が差し出して来たのは薄紫色の小振りな紙袋。何だろうかと手塚が中を覗き込めば、そこにも袋と同じ色をした小箱が幾つか入っていた。
袋の中からそれをひとつ取り出して、ああ、と手塚は納得する。
入浴剤だった。
いつ知ったのかは知らないが、母親はリョーマの趣味、というか、嗜好を心得ている。こう云った貰い物の入浴剤は少し前から頻繁に手塚家から彩菜の手を通じてリョーマへと渡っている。手塚家では滅多に使用されないせいだ。主に、祖父がこの手の品は嫌う。
偽物の香りがする風呂は気持ち悪いとか何とか。
まあ、確かに花々や果実の香りを誇張し過ぎて人工的な匂いではある。それはそれとして、手塚は受け止めているから彼自身は嫌いでも好きでもないけれど。
迂闊にリアリティを求めてしまうのがいけないのだ。
今、手塚が袋の中から取り出した一箱にも『ラベンダー』と記述はあるけれど、飽く迄ラベンダー『風』の匂いがする入浴剤、というに過ぎない。
「そうそう、それと。はい、これ」
中身を確認して、袋の中へと箱を戻している手塚の眼前に、彩菜は二つ目の紙袋を差し出した。
これは?と尋ねつつ、また中を覗き込めば、今度は衣服が数点。
「また泊まってくるんでしょう?」
「…また、って母さん…」
けろりと云われた言葉に、思わず手塚は顔色を曇らせた。そんな息子の様子に逆に母親である彼女は少しだけムッとしたようだった。
「また、じゃないの。お母さん、何か間違ってるかしら?」
「いえ…あの……」
「先週の土曜も、ちょっと行ってくるって言って結局夕方に電話で『泊まる』って連絡があったわよね?」
「は……まあ、その…」
「たしか、先々週も晩ご飯までには戻りますって言い乍ら、結局お泊まりしてきたわよね?」
「あの…母さ…」
「先々々週も――」
「…すいません。お借りしていきます」
母親が差し出したままだった紙袋を、恭しく手塚は受け取った。母は強しとはこの事だろうか。
どこか可憐さを残す顔をしつつも、内には確りとした剛胆さを持ち合わせる彼女はやっと「行ってらっしゃい」と息子を送り出した。
行って参ります、と返した一人息子の口調はどこか弱々しい。
母が持たせてくれた入浴剤には香りによるリラックス効果もあるというし、出掛けにうっかり負ってしまったこの妙な気疲れも、ひょっとしたら癒してくれるかもしれない。
出掛けのこの時以外にも、どうせあちらに着いたら着いたで、新たな気疲れを齎されるに違いないことだし。
自宅デート、と云うよりも、保育所に出勤する保育士の気持ちが、越前邸までの道程を辿る手塚の心境だった。
辿り着いた先は、保育所と表現するには立派すぎる邸宅だけれど。中で自分を待ち受けるのは、手のかかる園児と言及しても罰は当たるまい。
ああ、やはり今日は宿泊先であるこの家の風呂でのんびりと寛がせてもらおう。そう夢想しながら、手塚はドアベルを押した。
ピンポーン。
どこか抜けたチャイムがドア越しにも手塚に聞こえた後、ものの三秒と経たずに目の前の扉は開いた。
「いらっしゃい、部長」
迎えてくれるのは、予想通りの二つ下の彼。
朗らかに向けてくる笑顔も、無邪気な園児と比べてそう大差は無い気がする。――保育士気分がまだ抜けきっていないせいかもしれないが。
扉を潜った先の玄関で靴を脱ぎつつ、手塚は母親からの土産をリョーマに手渡した。
母親から、という旨を伝えれば、謎に彼女と懇意にしているらしいリョーマは目を輝かせて中を覗き込み、あの薄紫色の箱を取り出した。
両手で掴んで、くるくると箱の外面を見回した後、じいっと箱の表にプリントされた淡紫の穂を注視し出した。
何も、そんなに珍しいものでは無いだろうに。
手の中の小箱を凝視するリョーマを不思議そうに見下ろし乍ら、手塚は何とはなしに「どうした」と尋ねた。
振仰いでくる顔は、どこか思案顔。開いた口が発する声も、まだ考え倦ねた調子。
「今まで、フツーに彩菜さんからこうやって入浴剤もらってたけど――…」
合間合間に、首を捻り、ひょっとして、と言葉を挟んで。
「これって、今晩はうちの子とヨロシクやってね、ってコトなのかな?」
「…えーと、越前さん。違うと思いますが」
ただ家では使わないからお裾分けをしているだけの筈なんですが。
実の母がそんな下世話な意味を込めて、いつも持たせていただなんて、息子としては信じたくない恋人の予想。
けれど、相手の方は否定した自分の声など聞いていないのか、将又、頭から自分の説を信じ込んでいるのか、真剣な眼差しを変えることをしてくれない。
箱をくるりと裏返して、今度はそちらに記載された効能やら成分やらにリョーマは目を通し出した。
そのまま、前を見ずに進み出したリョーマの爪先は、手塚が知る限り、2階にあるリョーマの部屋へと続く階段では無く、バスルームの方へと向かっていた。
「あせも、荒れ性、うちみ、肩のこり、くじき、神経痛、しもやけ、しっしん……」
ぺたぺたと前進しながら零しているのは、恐らくリョーマが手にした入浴剤の効能の欄辺りなのだろう。
どんどん距離を置いていくリョーマの背を見遣り乍ら、追うべきか、先にリョーマの部屋へ行っておくべきか、将又、踵を返して家へと帰るべきか。路傍に残された気分で、手塚はただ越前家の三和土で佇んだ。
「……痔、腰痛、疲労回復、…………部長、これ、ヤった後に入るべきかな?」
すごい色々効くみたいだけど!
至って真面目な顔のままで振り返ったリョーマに、手塚は今日はこのまま帰ることを決心した。
効くから、と無茶を働かれでもしたら堪ったものではない。
herb bath
そっちの心配か!と最後の1行に突っ込みを頂ければ幸い。
ノーマルな挿れられ方しか慣れていない手塚劇場でした(待
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