ミモザサラダ
少し遅い昼食を食卓に並べた。食べる人間は二人なのに、二人分よりはやや多い量。
ピーマンと鶏肉のペペロンチーノ。茄子のミモザサラダ。シンプルだけれど、昼食としてはこざっぱりとした上々のメニューだろう。失敗もしていないし。
パスタの上の赤と緑、サラダの黄色と、見目にも実に鮮やか。それらを一人用の皿に盛るのでは無く、それぞれ、大皿とボウルに盛って。
未だに食い盛りなあの相方は全体量の半分以上はぺろりと平らげてしまうだろうから、特に目立った問題は無い。逆に一人ずつ、と皿に分ければ、与えられた分を完食した後に、こちらの皿に箸を伸ばす、という実に行儀の悪い真似をしてくるのだから。
さて、とタンブラーも二つ机に乗せたところで、手塚はリョーマが階上から下りてきていない事にふと気付いた。
やけに静かだったと思った。料理に注意と手とを奪われている隙は、構うには恰好の時間だからと普段から茶々を入れられているだけに。
今日は快晴だから、と、朝に干した布団をリョーマに取り込むよう頼んでおいた。そのせいでリョーマは今ここに居ない。手塚は安穏に調理を終えた。
まさかこんなに時間がかかる訳は無い、と、一縷の不安に襲われながら、手塚は2階へと続く階段を上がった。
トントン、と階下から近付いてくるスリッパの音に、春の陽気を吸い込んだ布団の中で埋もれるリョーマは閉じていた瞼を緩々と開いた。
階段を上りきった足音は廊下を進んで、恐らくこの部屋の前に辿り着いたのだろう。ピタリと足音が止まった。
ドアが開かれる音を聞きつつも、リョーマの体と意識は微睡みに半ば支配されていて、どうにも身を起こせなかった。
視界を埋め尽くすのは、薄手なアイボリーの布団生地。背中で感じるのは春日の暖かさで、頭の先から感じるのは、痛いくらいに呆れられた視線。
起きなくちゃ、と解っているつもりなのに、日溜まりの匂いがするこの海から脱出する程の抵抗力は備わらず。
「越前」
起きなくちゃ、と、本当に理解しているつもりなのだ。溜め息混じりのそんな声を聞けば、その思いは猶のこと。
むう、とか、うう、とか呻いて、俯せに寝た体の下に敷いてしまっていた腕に力を込める。彼等の頑張りで、頭を少しだけ持ち上げることに成功した。
「飯だ」
「…わかっ……て、…………ます、よォ」
薄くしか開けない瞼の隙間から見た彼は、声の調子とは裏腹に怒っている風でもなく、呆れているのでもなく、ただ、ちょっと困ったとでも云わんばかりに苦笑していた。
起きなくちゃ起きなくちゃ。
大好きなあの人と、その人が作ってくれたご飯が待っている。
なのに、自分の咽喉から振り絞った声は、なんだか悪態を吐いているようで、おかしいな、とリョーマは眠気八割の頭の片隅で不思議がった。
「晩まで寝ているか?」
聞いた感じでは、慮ってくれている発言染みているけれど、手塚は直後に「その場合、飯は俺が一人占めだ」と続けた。
リョーマの胃袋が本体に代わって返事をひとつ。翻訳者を間に置けるとするならば、「オレも食べる!」と云ったところか。
お腹もちゃんと空いている。認識には繋がらないけれど起きようという意識はある。
今すぐ、身を起こすことに必要な要素は全て揃っているのだけれど、今日の睡魔は史上最大に強者らしく、リョーマを夢路へと強引に誘ってきた。
眠りを司る悪魔に、今日は小春が味方についているせいかもしれない。しかも、それの化身と云わんばかりの太陽光線に塗れた布団にすっぽりと埋まっているのだから。
起きなければ、空腹は埋められない。それどころか、食事は全て手塚が掻っ攫ってしまう。体躯ばかりは痩身だけれど、意外と食べる人だから、発言を実行に移す可能性は非常に高い。
多分、その影響で晩ご飯の時間帯まできっと胃は膨満で、作る気力を失って、リョーマは手塚の手料理にありつけなくなったりするのだろう。
お腹は、空いてるんだってば。
今の状況に甘んじ、且つ、手塚製の料理を腹に収める。そのふたつを可能にするには――
眠気八割五分。先程よりも胡乱になりつつある頭で、必死に対手塚用の方程式を解くリョーマを前に、手塚は辛抱強く立ち尽くした。基、待った。
どうせこんなことだろう、と思ってもいたし、何より、リョーマが寝穢い事は今に始まったことではない。寝息をたてるのを懸命に堪えているだけ、今日はまだ頑張っている。
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
チーン
最後の詰めを終えて、リョーマは体の下にある布団を突っ張って、起き上がることに励もうとしている両腕を頭上に伸ばした。
リョーマの頭上、と謂えど、彼は伏臥している状態だから、傍から見れば、手塚の方へと腕を伸ばしている体勢。
リョーマが動かしたのは、その腕だけで、後は口をゆったりと開くに留めた。
「おいで」
たった三言。
それだけだったのだけれど、手塚は観念した様に吐息した。
食事よりも睡眠を選択したリョーマに対してか、将又、わずかな言葉だけで其所へと足を踏み出した自分に対してか。
零した溜息が明るい部屋の隅に霧散する頃には、伸ばされた手に搦めとられて、手塚は仄かな日溜まりの香りの中へと身を沈めていた。
少し甘酸っぱさもあるその匂いの中で、手塚は昼餐にはミモザサラダがあったことを思い出した。
サラダに冠されたあの花も、今、鼻腔を擽っていくこの匂いとよく似ていた気がする。
ミモザサラダ
ミモザはお外の国では春を象徴するとかなんとか、耳にしましたのでこんなノリで。
春眠暁を覚えず、的な。笑。
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