吾も亦、紅なりとひそやかに
いつものランニングコース。いつも通る空き地の前。茫々と伸びる枯れ草のその中に、青味がかった不思議な色の猫毛がちらりと見えて、海堂は意図的にスピードを緩めた。あの髪の色を持つ人間を、ただ一人知っていたせいだ。
声などかけずに日常通り、心寂れたこの空き地の前を通り過ぎ去ってしまえばいいのだろうけれど。
「……………」
大きく大きく溜め息を吐き出して、結局海堂は爪先の方向を変えた。
秋の色が濃くなってきたこの肌寒い季節に、あんなところに居て風邪をひかれては困る。海堂はかの少年のただの先輩から、彼を含め部員を纏める地位にいるのだから。
引退していった副部長が神経質なくらいに部員の体調管理を気にしていた理由が、ここ最近になって、漸く解ってきた海堂だった。責任者の一人というのは、中々に骨が折れる。
足を踏み入れた荒れ放題な草の大河は一歩進む毎に容赦なく物音を立てる。足の下で踏まれる力に耐えきれない枯れ草がパキパキと鳴っては千切れてしまい、こっそりと近付く筈の海堂の予定は塵と消えた。
空き地のど真ん中で、草の丈に埋もれていた頭がくるりと方向を変えた。そして、向かってくる海堂を見つけると、不思議そうに二度三度、瞼をぱちぱちとさせた。
「海堂先輩、こんなとこで何やってんスか?」
「てめェこそ、んなとこに座り込んで何やってんだ」
「何、って、猫」
猫ォ?
素っ頓狂な声で海堂は返し、猫ですよ、とリョーマが淡々と再度反復したかと思えば、こちらを見ていた顔がまた草の中に沈んだ。
次にリョーマの顔が上がった時には、手が掲げられ、その手で抱え上げられたふさふさとした長い毛を持つ猫が顔を出した。
彼は不思議そうな顔で海堂を見ると、なぁお、と鳴いた。
唐突に顔を出した猫に、海堂はびくりと足を止めるがそんな彼などお構いなしに、リョーマは「猫でしょ?」と暢気な調子。
「家から逃げ出したから、追っかけてたらここに着いたんスよ。で、これで遊んでやってただけ」
猫を一度、大地に下ろし、”これ”とリョーマは今度は片手だけを上げた。握られているのは燕脂色をした楕円形の固まりを先に生やす何かの植物。
遠目には固まりに見えたそれだけれど、近付いてみれば花穂であるらしいことが解る。表面がつるつるとしているのではなく、ボコボコ、というか、何かの集合体である姿をしていたものだから。
リョーマのすぐ隣まで歩み寄って、座ったままの彼を見下ろした。
「なんだ、ワレモコウじゃねえか」
「われもこう?これの名前?」
知りもせずに手折ったのか、という様なことを問い返せば、猫の遊び道具にはもってこいだと思ったのだと、リョーマは答えた。
猫じゃらし程は柔らかくはないけれど、形が似ていると云えば似ているだろうか。楕円で、穂形であることだし。
何よりも、まだリョーマがそれを捨てていないということは、猫に対してきちんと有効だったのだろう。
リョーマから更に下へと視線を動かせば、頭上で掲げられた楕円の穂を興味津々な顔つきで見上げているヒマラヤンを見つけた。
秋風に、彼の豊かな毛がそよぐ。
「……この間のヒマラヤン…」
「え?」
「なんでもねェ。 ……名前は?」
猫を注視したままの海堂からの問いに、越前リョーマです、と海堂も周知であろうが、改めて名乗れば、そうじゃねえ、と定石な突っ込みが入る。
「猫だ、猫。てめェの名前なんてとっくに知ってんだよ」
「なに、海堂先輩、猫好きなの?」
「す…好きじゃねえよ、猫なんてよ」
明らかに狼狽している様子。三白眼の目が見開かれたりする様は、部活ではそうそうお目にかかれないかもしれない。
揶う悪質な顔で、ふぅん、とリョーマは漏らした。そんなリョーマを真似るかの如く、猫もほぁん、と奇妙に鳴いた。
「こいつの名前はねー…………」
まさか、正直に教えてやるつもりはリョーマにはない。揶揄える糸筋を折角見つけたのだ。これを有効利用しない手立ては無い。
暗い赤の穂先に意識を奪われている猫をひょいと抱え上げ、憮然とした彼の顔を海堂へと向けてやった。
こっそりと薄笑って、
「クニミツ」
「くに…………みつ?」
著しく、海堂は眉を顰めた。
海堂だって知らない訳は無いだろう。何しろ、ついこの間、引退していった、彼が尊敬してやまない部長様の御名前なのだから。
「…お前、部長の名前を飼い猫につけてんのか?」
「だって部長が九州に行ってる間、名前も呼べなくて寂しかったんだもん。健気でしょ、オレってば」
「健気というか………ちょっと薄気味悪いつか…」
「先輩の彼氏程、キモくないよ」
「別に乾先輩はキモくねえ…!」
今度は確りと、にんまり笑う。手塚より揶揄い甲斐があるかもしれない。手塚はこんな純朴な墓穴はそうそう掘らないものだから。
「オレ、乾先輩とは言ってないんスけど。へえ、お二人ってそういうご関係でー」
薄々、勘付いていたどころか、乾の態度から丸解りだったけれど。
口端をゆるりと持ち上げて、完全な得たり顔。対極的に、海堂の目元には朱が差した。
いつの日かの練習の合間に、乾が惚気ていた様に、確かに乙女回路の持ち主らしい。
酷く、楽しい。
楽しいけれど、今、この場でけたけたと笑おうものなら、血を見そうなので胸の内だけに控えることにして。
猫を抱えたまま、手には吾亦紅を一枝握ったまま、リョーマは立ち上がった。
突然のリョーマのその動きに、海堂は一歩後ずさった。別に何もしていないというのに、不審な先輩の行動。
「先輩、キョドりすぎ。堂々としてればいいんじゃないスか?ちゃんとあの人のこと好きなら」
「う、うウう、うるさい…っ!!」
「乾先輩がぞっこんなのもわからなくもないかなー。先輩、かーわいいよねェ。ま、オレは部長一筋だけど。ごめんね」
「別に、好かれたくねェよ…!」
「一途だね」
乾先輩に。
尚も海堂はせびらかしてくるリョーマへと、抗議の声を張ろうとするが、彼が発声する前に、
「お先失礼しまース」
快笑した顔で海堂をそう遮ると、リョーマはあっさりと歩道の方へとざくざくと歩いていった。
仲良い別の恋人同士の様子を窺い知って、自分も自分だけの恋人にふと会いたくなってしまって。
猫も玩具代わりの花も一緒だけれど、まあ大丈夫だろう。
吾も亦、乞う。
我も亦、恋う。
吾も亦、紅なりとひそやかに
薫と手塚の原材料は、実は結構似てるんだと乾海の友人に力説されてなるほどな!と思いました。すげーんですって、これが!
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