ライフステージ
「よお緊急連絡先」
母親に取次いでもらった電話を耳に当てた瞬間、声の主はそう切り出した。そして、緊急だぜ、と笑いを噛殺した声で告げたかと思うと、手塚がどちら様ですかと問う前に手塚の家からはやや遠い公園の名前を続けた。
そこへ今すぐ来い、と。
いいか、すぐだぞ。と念押してから電話は一方的にぷつりと切れた。
「蛙の子は蛙…」
受話器を親機に戻しながら溜め息とともに手塚はそう漏らし、電話主が指定した様に急いで出掛ける支度をした。
雨期も初めの頃だったから、ただ用心に傘をひとつ握りしめるだけ。そうして足早に手塚は家を出た。
自分勝手な電話の相手は、リョーマの父親だった。
そして、手塚はいつの間にやら自分がリョーマの緊急連絡先に宛てがわれていたことを知った。
手塚が言われた場所に到着すると、疎らに子供達が遊びはしゃぐ公園の一角に見なれた白いキャップ帽と靴下の詰まったスニーカーが一人分転がっていた。
公園内を駆け回る乳幼児達の足の大きさではないスニーカーだったから、それはすぐに手塚の視界に飛び込んできた。片鍔の白い帽子への反応はもう反射の様なものだ。街中で見つけても知らずと目で追っている。
取りあえず、手塚はそれらが転がる地点へと足を進ませる。
そこは濃緑の葉が繁茂する高木の根元。
近付いてみれば、子供好きはしないどこか癖のある花の香りが漂っており、至極自然な流れで手塚は上を見上げた。
そこに至って漸く、手塚は自分が呼ばれた理由を悟った。
長楕円形の葉の隙間を埋める様にぽつりぽつりと咲く白い大きな花。ものによっては花の先が茶褐色に変色し始めているものもあるけれど、盃にも似て広がる花の向こう。
4、5メートルはあるであろうその木の頂き、木の股に器用に体を預けて足を宙に投げ出して。
すやすやと眠る越前リョーマがそこに居た。
「馬鹿だ…」
リョーマを視界の先に見つけての手塚の第一声はそれ。馬鹿としか言い様がない。ひょっとしたら他に言い様があったのかもしれないが、手塚としてはその単語の他は出て来なかった。
落ちたらどうするのか、とか、この雨期の始めに唐突に夕立ちが来たらどうするつもりなのかとか、叱る要素は様々あれど、そこは人間が睡眠の場所として用いる場所とは程遠い。
昼寝をしたいのならば家の寝床ですればいい。それが何をどう言う選択肢から彼処が選ばれたのか。
暫間、上を見上げたままで手塚は頭を痛めた。
あの父親も父親だ。
偏頭痛がてらに手塚は電話をわざわざ寄越した彼の人物へも意識を飛ばした。
この場所を知らせて来たということは、あのリョーマをこの場所で発見したと云うこと。
だというのに。
発見にまで至った癖に。
「どうして下ろさないんだ馬鹿親父………」
ああ、もう、と手塚は我が身の不幸を呪い、越前の血に流れる面倒事を他人に押し付ける性格を呪い、長く重い溜め息をその場にたっぷりと吐き出し、改めてぷらぷらと揺れる少年の素足の裏を見上げた。
一丁前に体は成長しているせいで、裸足で木を登り出すと数人の子供が物珍しそうにこちらを眺めていた。
それもこれも、どれもあれも、ああ、全ては目の前の少年のせいなのだ。
この礼は高くつく。勿論、礼をしてもらうのはあの椿堂も同じだ。
木登りなど、久方ぶりだ。久方どころかひょっとしたら初体験にも近いかもしれない。
足の裏が感知する木の肌の感触にとんと覚えが無い。手が掴む木の逞しさも前世くらいに遠い昔に触ったことがある様な無い様な。ラケットのグリップめいた人工的な感触は欠片もない。総天然材。人の肌の如く、有機的なもの。
その手触り、足触りに親近感が無いのは、ここ数年で小学校とは違う結果を求められる勉学や責任で記憶脳を使っているせいか、このコンクリートジャングルで、ここまでの高木が生えているところはそうそう無いからか。
家の庭木も近所の公園も、低木ばかりだ。
この木の麓に提示されていた由緒書きには北アメリカ原産とあった。ああいった国土も広く伸びやかな土地ではすくすくとこういった大木の種類が生えていたりするのだろう。
少しずつ地面から遠退き、鼻腔を刺激してくる強い香りが辺りを圧迫してきたところで、ああひょっとして一つのホームシックなのだろうかと、手塚は見当をつけた。
リョーマがあちらで木に登る習慣があったかどうかは知らないが、周囲を一望できるこの高さは彼好みだろう。ひょっとしたらしょっちゅう登ったりしていたのかもしれない。彼にそんな癖があったのだとしたら、父親がこの場所を見つけたのも頷けないことも無い。
都会ではそう滅多にお目にかかれない背の高い木。それについ数カ月前まで住み慣れていたものを重ね合わせているのだとしたら。
「子供だな」
手塚の結論はそれだった。
結論づけられなくとも、リョーマは子供と胸を張っていえる年頃なのだけれど。
辺りを眺望できる木のてっぺん。そこはさぞかし吹き抜けていく風の心地も最高潮だろう。
安眠を貪るリョーマに、手塚はやっと辿り着いた。もうその頃には、花が本能的に香らせている匂いに半分くらい酔っていた。
一輪でも結構な香りの量だろうに、それが木一本分となると目眩に近いものが起こる。
「…この、馬鹿」
がんがんと響く頭を手で押さえつつ、足の裏でのドンと蹴って、リョーマを文字通り叩き起こす。
自分が愛して止まない少年がいつまでも世界を知らないままの子供で居ることに、その時の手塚は妙に苛立たしさを覚えていた。
それから数年経っても、リョーマは時折木の上で居眠りをするものだから、手塚はそれがホームシックでは無く、煙と同じものなのかと首を捻ることになる。
ライフステージ
うちの越前さんが寝てばっかりなのは、多分わたしも寝穢い性格だからだろうと思います。
かえるのこはかえる。
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