Daphne sleeps at Flower*bed
















扉を抜けると、そこは香りの国だった。

扉を開いたリョーマはここが何処なのか、それを知らない。夜特有の深淵のせいで辺りの風景もよく見えなかったせいもあるかもしれない。
けれど、それ以上に、ただ手塚の後を追いかけていたら辿り着いたせいだった。

手塚がここへと足を運んだのは、全くの偶然か、もしくは嗅覚でこの香りが漏れ出ていたものでも感じ取ったのかもしれない。兎に角、彼が自律する意識下で此処へ赴いた訳ではなかった。
本能、とでも云うべきだろうか。

手塚に今、確固とした意識は無かった。酒に酔わされていたせい。
リョーマの父親の手によって半ば強引に飲まされた日本酒の。しかもそれを摂取したのが遅い夕餉前の空腹の時と来ていたものだから、アルコール分は早馬の如く手塚の体内を駆け巡り、リョーマが気付いた時にはふらふらと千鳥足で夜の帳が下りはじめた外界へと出ていく手塚が居た。
父親をひとつ叱責してからリョーマは手塚を追い、手塚は後ろから名指しで追われるものだから自律が飛んだ酔いも手伝って止まることなく逃げ、小さな追いかけっこの果てにこの小さな箱庭の中に逃げ込んだ。
そして、そこにリョーマも辿り着いた。
事のあらましはこんなところ。



扉を開けた途端に、夥しい程の香りの群れ。けれど、噎せ返る様な諄い芳香の類ではなく、どこか瑞々しさすらある甘く漂う香。
追いかけていた手塚の名を呼ぶことをそれらのせいでリョーマは失念し、少しだけ息を吸い込んだ。

明かりの無い暗い室内。どこまで広さがあるのか、何が此処にあるのか、視覚はまるで役に立たなかった。
そこで吸い込んだ空気は嗅覚が捉えたものと同じで甘い気がした。
味覚と嗅覚がそうして働く中、聴覚がリョーマに本来の目的を思い出させた。

底無しにも思える程、暗い闇の中から立ち上る、くすくすと笑う小さな声。ああそうだったと、リョーマは手塚を追いかけていた数分前に立ち戻った。
困り笑いと困惑の溜息とを交ぜ合わせたものを滲ませつつ、リョーマは一歩、前に進み出た。
部長、と目が働かない暗い向こう側へと声を投げる。

「鬼ごっこは終わりだよ」

応答を返してくる代わりに、止まらないらしい忍び笑い。それを頼りに、今度は隠れんぼに付き合ってやった。
笑い声は近くなったかと思えばがさがさと何かを揺らしてまた遠くへ。動いた音のする方へと向かおうとすれば、今度はリョーマが何かにぶつかる。
衝突して初めて、リョーマは其所にあるのが植物であることを知った。恐らく、手塚が先ほど揺らしたのは葉だ。
ぶつかった感触からして、高さは1メートルと少し。繁茂する葉と、香りからして花。花以外にあり得ないだろう、この甘い香りは。

手で正面を弄って枝や葉を認識していれば、後ろから不意に伸びてきた手に体を捕らえられた。
真っ暗なままの視界だけれど、均衡がぐらりと傾いて後ろに倒れていく感覚はある。そのまま、転倒の衝撃が襲ってくるかと思えば、然程の痛みも無く、ぱちぱちと瞼を屡叩かせていれば頭のすぐ上でさっきの声。
手塚が忍び笑う小声。

「……〜〜っ、部長」
「なんだ?」

漸く応答した声は語尾上がり。くつくつと笑う声も混ざり混ざって、酷くご機嫌な様子。
こんなにもアルコールに弱い人だっただろうかと、小さく疑問に思う。この間に肝試しがてらに酒を舐めた時は、笑い上戸では無かった筈だけれど。

「また、俺以外のことをかんがえてるだろう?」

舌ったらずにそう言ってはまた笑う。
リョーマは苦笑した。

「ちゃんとアンタのことだよ。また、って失礼だね」

オレがアンタ以外のこと考えると思う?
後ろから回されている腕の中で寝返りを打って、自分の体の下に居た手塚に正面を向ける。それでいい、と見下ろした唇が言葉を紡いだかと思えば、楽しそうにこちらの唇を啄んでくるものだからリョーマもそれに易々と応じた。
夜も遅くだと云うのに、追いかけて走り回って、体が丁度疲労を訴えてきたところだ。ここらで安息を頂戴したって構わないだろう。

音が自然にくちりと鳴って、一度リョーマは身を離すが、手塚がそれを許さなかった。体勢を変えることすら禁じて、ただリョーマを欲しがった。
吐息に絡めて、名前を呼んでは強請るものだからリョーマも次第に抑制の箍がみしみしと外れていく。

こんな、何処だか知れない場所で。
そんな思いも微かに脳裏を過ったりもしたけれど、今は目の前の恋人が最優先。
キスの合間に指で髪を梳けば、そこからも染み付いていたらしい花の香りが仄かに香った。辺りからちらちらと寄ってくる香りと同じもの。
至る所の肌からも、舌の上からも、唾液の味さえも全てが同じもの。

「花みたいだ」

喉元で細く笑ってそう零し、リョーマは前髪に隠れた額に唇を滑り込ませて口吻けをひとつ。
擽ったそうに手塚が身を捩った。口元からは栓が壊れた水道みたいに笑いを漏らし続けたまま。

くすぐったい?
指で項を摩っては目尻にキスを落としつつリョーマがそう意地悪く尋ねれば、

「楽しい」

そう言って手塚はリョーマの服の裾から手を差し入れて背を撫ぜて、煽った。思いの外、低温だったらしい箱庭の空気が指先と一緒に忍び込んで来ては共にリョーマの背筋を這う。
雄の気配を漂わせ始めて笑いを零してから、リョーマはまた手塚の唇を攫った。

「言ってくれるね」

そう言い置いてから。

後の行為の顛末を知っているのは、二人の周囲に軒並んでいた彼女達と、とある一人―――









「てめェら、人んちで何やってる。いや…何してた」

リョーマが目を覚ましたのはその男の声と、頭に食らった一発。
まだまだ重い瞼を懸命な力で押し上げ、リョーマが見たのは跡部景吾その人がふんぞり返って見下ろしている姿。不審気にリョーマは顔を歪めた。

「アンタこそ、何やってんの。こんなとこで」
「こんなとこたあ随分じゃねえの。”ここ”は俺様の家の庭のひとつだぜ?」
「庭ぁ?」

そこで漸く辺りを見渡して、リョーマは自分と、それから隣でまだ眠り続けている手塚とが剥き出しの土の上、そして青々と葉を茂らせ白い花を盛んに咲かせる低木達に囲まれていることに気が付いた。そして真正面に仁王立ちの跡部。自分達はお座なり程度に元着ていた服をその身に掛けている状態に、土の上には疎らに落ちた皮質な葉。

香りの正体はあの花だったのかと、目の前の跡部を通り抜けた向こう側をぼんやりと眺めていれば、唐突にしゃがみ込んで目線を無理矢理合わせにきた跡部が視界に入る。

「住居不法侵入罪、所有物損壊罪、猥褻物陳列罪。さて、どれで警察に突き出して欲しい、チビ」
「ねえ、ここ、何?」

盛大な渋面の跡部の言葉を左耳から右耳にさらりと流して、自分本意にリョーマが尋ねれば、忌ま忌ましいとでも言わんばかりの酷い顔で睨み付けられた。

「ここはうちの曾婆さんの花壇みたいなもんだ」
「花壇…って言うにはでっかい気がするけど……」

くるくると辺りを見渡せば奥行きも広いし、幅もある。天井に至っては薄い色のドームめいていて、花壇、というよりは温室という方が正しい気がする。
再び本題に入ろうとする跡部を遮って、リョーマは何の花なのかを尋ねた。

返ってきた言葉は沈丁花。沈香や伽羅を作る為と、普遍的な観賞用に育てられていると、跡部は大層面倒くさそうに答えた。

「これ、部長にぴったりな匂いがするんだよね。一個、貰っていってもいい?」

欠伸を遠慮なくした後、とてもではないが人に頼み事をするには相応しくない不遜な態度で跡部にそう伺えば、冗談じゃねえ、と断られた。

「ケチ」

そうぼやいた後に、リョーマはすぐ真後ろで立っている一枝をぽきりと手折って寝息をこの状況下でも安穏と立て続ける手塚の耳元に挿した。
小振りな白い花は恥ずかしくなるくらいに手塚に似合った。

「………あと10分でそれ起こしてさっさと帰れ、お前ら」

こちらの話を微塵も聞かず、手塚の寝顔に見蕩れて微笑むリョーマの姿に、遂に跡部は愛想を尽かして立ち上がってその場を後にするのだった。


















Daphne sleeps at Flower*bed
花壇には沈丁花が眠る。
沈丁花はわたしも好きな花のひとつ。昔、外のトイレの脇にあって大層可愛がってたんですがリフォームと共にばっさり切られました。切ない思い出ー
塚は飲むごとに酔いに対する態度が違えばいいと思います。笑い上戸だったり泣き上戸だったりキス魔だったり笊だったり眠り上戸だったりしゃっくり止まらなくなったり。
手塚vs酒は色んなバージョンが好きなので絞りきれないだけですけど、ね…
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