リーリング・ユーフォリア
















アイツ、サイテーだ、と玄関口でテニスバッグをどすんと下ろして、リョーマは帰宅一番にそう言った。出迎えた手塚は誰のことだ?と返した。
手塚を見上げるリョーマの顔色は何とも厳めしい。

「今日の対戦相手」

ぽいぽいと靴を投げ散らかして脱ぎ捨て、テニスバッグを引き摺りながら手塚の脇を抜け、リョーマはリビングへと向かった。その足音は、どすんどすん、と、これまた不機嫌さを全面に押し出していた。
リョーマが脱ぎ散らかした靴を揃えてから、手塚もその後に続いた。

リビングのドアを押し開ければ、ソファに身を投げ出して伏臥している姿があった。まるで不貞寝でもしているみたいだな、と扉を後ろ手で閉めながら手塚は思う。

「今日のお前の相手と云うと――――…あの新進気鋭の奴だろう?」

あいつがどうした、とリョーマの頭側のアームレストに腰掛けつつ、手塚はゆっくりと尋ねた。リョーマの頭が少し持ち上がって、ご機嫌斜めに吊り上がった両目が少し窺える。

「アレのファンがサイテーだったんだよ。会場入ると同時にブーイングされた」
「お前、また何か人様に迷惑を―――」

手塚の言葉の先を「かけてないよ」とリョーマは更に苛立った声で遮った。

「時間通りに行って、普通にコートに入ったらブーイング。堪ったものじゃないね」

その罵声の理由を、リョーマは以下の様に挙げた。顔をソファに埋めているせいでくぐもってしまって、何とも聞き取り辛い声で。
相手はハンサムでも著名なプレイヤーで、圧倒的に女性ファンが多い。そして、プロとして長い。尚且つ、きちんと強い。
そんなプレイヤーに着くファンは得てして信望心が厚く、狂信的ですらある。彼女らにとって彼は偶像そのものなのだ。そんなプレイヤーの試合相手が駆け出しのリョーマとあって、それは不相応だと、彼に失礼だと、ファン達は一斉に罵ったのだった。

リョーマの話を一通り聞き、手塚はついぽつりと、

「お前だって、十分、かっ…――」

そこまで漏らして、ぴたりと言葉を止めた。リョーマがにやにやと目許を緩めたせいだった。
それまで俯せていた体をくるんと回して、リョーマは仰向いた。その視線の先で、手塚は失言だったと云わんばかりに口元を片掌で覆う。

「オレだって、十分、なに?」
「………」

横目で盗み見たリョーマはまだあの質の悪いにやけ顔を下げてはいない。
暫しの逡巡の後、手塚は観念したかの様に、唇を塞いでいた手を下げた。視線はリョーマとは逆の方向を見て。

「お前だって、十分、かっこいいじゃないか…」

少しだけ赤い顔でそう言った。にっこりと、リョーマは満足そうに笑って、やっと身を起こした。
視線を逃がしたまま、腕を組む手塚はそれ以上、突っ込んでくるなと暗に告げていて、それは見目にも明らかに照れている様子。
リョーマはそんな手塚の姿が可笑しいのを噛殺したまま、左掌を額の上に掲げてみせた。

「ほら、オレいつもキャップ被ってるでしょ?家から出てから帰ってくるまで。だから、オレの素顔ってよく見えてないみたいだよ」

だから、ファンは今のところアンタだけなんだよね。
それは全くの不幸では無いと、リョーマの口調が物語っていた。寧ろ、支援者は手塚だけでいいとばかり。

微笑むばかりのリョーマを、手塚は一瞥する。

「………世界の人間は不幸だな」
「何か言った?」
「何でも無い」

越前リョーマの良さの断片をまだ知らない世界は不幸だな、と手塚は胸中だけで繰り返した。
手塚の密やかな自慢を知らないリョーマは不思議そうに首を傾げた後、膝立ちで手塚の方へとにじり寄って、その袖を小さく引いた。呼ばれて、手塚の視線も落ちる。

「そういうわけで、今日はちょっとイライラしてるの」

何を要求してきているのか、瞭然すぎる顔付き。
試す表情で、手塚は自分のシャツのボタンのひとつ弾いて外してみた。途端にリョーマの目の奥が鈍く光って、握っていた袖を今度は強く引いた。
けれど、飽く迄、手塚は『試した』だけ。

「俺の躯は、ちょっとお預けだ」
「なにそれ」

ちゃんとノリ気の癖に。
そう言って、一番上のボタンが外れた手塚のシャツにリョーマは腕を伸ばすが、二つ目のボタンに手が届く前にぺしりとその手を叩き落とされた。

「お預け、ってことはちゃんと後でくれるの?」
「まあ、くれてやってもいい」
「この女王様め…」
「お前はおねだりが下手だな。王子様」

くつくつと喉元で笑い、リョーマの腕を解き払ってから手塚はアームレストから下りた。
そして、ソファの上のリョーマの腕を、改めて取った。

「一度の慰めで済んでも、所詮その場限りにしか過ぎないだろう」
「それでいいんだけど…」

手塚がリョーマにとってのお楽しみよりも何をしようとしているのか、解らなかったけれど、腕を引かれて、取り敢えずソファから下りた。
ぺたり、と鳴った裸足の音を聞いて、手塚は若干強めにリョーマの腕を引いた。

「どこ行くの?」

さっき潜ったばかりのリビングのドアを開けた手塚に、リョーマの投げかけは至極尤もなもの。振り返る事も無く、リョーマの腕を引いてただつかつかと手塚は玄関までの短い廊下を歩いた。
寝室の扉の前を通り、リョーマが、やっぱりこっちがいい、とドアノブを名残惜しそうに見詰めた頃。

「土手にならあるだろう」

何が、と再び問うたリョーマに、手塚は答えには到底ならない「今が咲き時だ」という台詞をまだ前を向いたまま告げた。
何が、とリョーマは同じ質問をリピート。

手塚が答えないまま、靴を履き出すものだからリョーマも珍紛漢紛なまま、それに倣う。
二人が靴を履き終えて、玄関の扉を開けた時だった。

「四葉のクローバー」

降ってきた淡々とした声にリョーマはもはや生理的反射でそちらを振仰いだ。鍵を事務的に掛けている手塚の横顔だけがあった。
聞き逃した訳ではないけれど、リョーマは、なに?と尋ねる。

「お前の遠い先の未来まで、幸運があるように」

四葉を採りにいこう。

「お前が苛立つ様な不幸が金輪際無いように」

幸せの為の小道具を探しにいこう。

至って普通の顔のままでそう言い落とした手塚に、リョーマは吃驚した顔で少しの間押し黙った。
そしてまた手塚がリョーマの手を引いて歩き出した頃に、遅れて笑みが込み上げてきた。手塚が自分の為に精を出してくれている間に、自分は彼の幸せを願いながら花冠でも作ってやろうと楽しい計画を思い浮かべつつ、リョーマは手塚の後に続くのだった。


















リーリング・ユーフォリア
手塚がすごい突飛な子に…。そんな子でもリョマさんの為ならミラクルに四葉のクローバーを見つけだしてしまったりするんでしょうね。ああ、もう、ホント、お前は越前のこと好きだよなあ…!わたしもだ!(勝ち目なし

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