「おっちびーっ!」
「……ッ!  英二先輩…フツーに声かけられないんスか」

いつもいつもの部活前の出来事。
リョーマを見つけた菊丸がその小さな背中目掛けて手加減無しに抱きついた。
ほぼ毎日繰り広げられている光景だった。
迷惑だということは明らかな渋い顔で、リョーマは背中に伸し掛かってきた菊丸を振り返った。そんなリョーマの顔を見留めて、今度は菊丸が顔を顰める番。

「これが俺のスタンスなのーっ。なんだよなんだよ、ケチつける気か?一年ボウズー?おらおらー」
「うわっ、ちょ…っ!人の背中の上で暴れるのやめてく…」

ずうん、と辺りに突如として重厚な音が響いて、リョーマは言葉を一度中断し、視線を前に向けて若干上げた。リョーマの背中にへばりついていた菊丸も同様に目線を擡げる。

「…ださい、ヨ…?」

目の前にあるのは見慣れたその人の姿。知り尽くしている人だけれど、リョーマは怪訝そうに首を傾げた。無意識に、頬が引き攣って歪な笑みを作る格好に。

「越前、グラウンド20周…」

禍々しい迄の低音で、リョーマと菊丸の前に立ち塞がった手塚はそう告げた。

「なっ…!なんなんスか、いきなり」
「そーだぞー手塚ムチャク……――」
「菊丸……、お前は50周だ」

颯々と行ってこい、と続けた手塚の顔はあらゆる凶悪さを越えていた。魔人か閻魔か判別出来ない程のおっかない顔。真っ青に晴れ渡る空のどこか遠くで空気を裂いて雷鳴が轟く幻聴を、その場に居た全員は耳にした。

「お、おおおおお、おちび、行こっ」
「…え、ちょっ、英二せんぱ……」
「いーから早くっ!」

有無を言わせぬ部長様に、軽業師は後輩を引き摺って校庭へと駆けて行った。













黄色い彼女の本音は彼
















泉の向こうにいた彼に恋をした少年は、その相手を抱きしめることも口吻けすることもできなかった。何故ならそれは彼自身の水面に映り込んだ己の姿だったから。
けれどこちらが微笑めば相手も思わせぶりに微笑み返す。
恋に身を窶した彼は、そのまま向こう側の彼に触れられるのを待ち望み乍ら畔に佇み、日に日に衰え、そしてとある日、遂に死んでしまった。
彼の遺体は一輪の花に姿を変えた―――



「っていうお話があるじゃない?」
「ギリシャ神話かなんかッスよね、たしか」

物憂いな表情で訥々と物語を語った菊丸と、それをただ淡々と聞いていたリョーマが走るのは学校のグラウンド。
彼等の監修係として、スタート兼ゴール地点には大石が立っている。少しばかり心配そうな顔つき。

「神様は情けをかけてくれるのにさ、俺らの部長は血も涙もないよね…」
「あれって神様が姿を変えさせたんですっけ?勝手に変わったんじゃないんスか?」
「神様でしょ?だって人間が独りでに花に変われるわけないじゃん」
「や、あれって変わったの人間じゃないッスよ。多分。なんか水の神様と河の神様の間の子だから一応神様の一人で――」
「もう、ウンチクはいいよ。どっかのセータカノッポの乾貞治じゃないんだから」

菊丸は頭の先から煙をぷんすかと立ち上らせた。
ただ思ったことを発言しただけなのに、と困り果てつつ、リョーマはそこから先は喋らなかった。ただでさえ気難しい方に流れている気分屋のご機嫌をこれ以上損なう必要性はどこにもない。
それ程に菊丸の機嫌を悪くさせたのは他ならぬ手塚だ。

彼も、どこか虫の居所が悪いのだろうか。急に罰走を命じるだなんて。

隣で何故か今度は乾に鬱憤の矛先を向けて愚痴を零している菊丸の話を聞くフリをし乍ら、リョーマは視線だけコートの方へと向かわせた。
距離があるここからでも判る。コートの中で一人ぴりぴりとしているあの人の気配。

「……やきもち、にしては爆発が遅いよね…」

”アレ”は毎度お馴染みの日常風景なのだから。

「む?おちび、俺の話聞いてる??」
「聞いてますよ。乾先輩って足臭そうって話ですよね」
「そうそう。だって部室、時々変な匂いすんじゃん?あれ絶対乾のせいだと思うわけよね、俺」

スポーツ後で大量に汗をかいた人間が何人も出入りしているのだから、時々の雨の日などは窓が開けられなくてそれは変な匂いも籠るだろう。乾にとっては濡衣もいいところだ。
愚痴からいつの間にやら悪口に変わった話題を適当に去なし乍ら、リョーマはトラックのカーブを曲がる。

遠くで、部員を叱りつけているらしい手塚の怒声が聞こえた。

「…アレ、オレが静めないといけないのかな…」
「ちょっとー、ホントに話聞いてるー?なんか別のとこに意識行ってない?」
「聞いてますって。汁ばっか作ってるから足にもあの匂いが染み付いてるんじゃないか、デショ?」
「だって暇があったらアレの研究してるとか言うんだよー?中学生男子としてどうかと思わない?もっと青春を謳歌すればいいのにさ」

それが彼なりの謳歌方法なのだろうから、放っておいてやればいいとリョーマは思う。
今、放っておいてはいけないのは寧ろ手塚の方だ。どれほど、溜め込んでいたのかは知らないが、何もこっちまで巻き込んで爆発しなくても良いのに。

ゴール地点の大石がどんどん大きくなってきた。菊丸はまだ隣で乾の悪口を大声で喋っている。きっと、乾本人にも丸聞こえだ。

「…ひょっとして、まだ他にも溜めてる?」
「おちび、ホントは聞いてないでしょ?素直に白状してみ?」
「しつこいッスね。聞いてますったら。乾先輩はドリアン星でこきつかわれてた奴隷で、あまりにキツい労働が嫌になって地球に逃げてきたんじゃないか、っていうとこまで話してるんでしょ?」
「母星の奴らも乾みたいな髪型してんだぜー、きっと」
「そうッスね」

投げ遺りな相槌を返したところで、リョーマの分の罰走は終了。
最後の一歩を大きく踏み締めて、リョーマはトラックから抜けた。こちらに向かってずるいずるいと喚き乍ら、菊丸は罰走続行。

乱れた呼吸を整えつつ、リョーマは大石の隣に並んだ。
大石はトラック上の菊丸を見守っているが、リョーマはコートの中で檄を飛ばし続けている手塚を見遣った。

「行ってやらないのか?」

不意に落ちてきた大石の声。気遣いめいているその声音は、性分のせいだろう。
手塚の方角に視線を投げたまま、リョーマは考える様に少し唸った。

「このまま放っておいたら部長泣くかなー、と思って。様子見ッス」

泉に映った己に恋をした太古の少年宜しく、こちらを振り向かせようと身を窶してみたりしてくれるだろうか。
思わせぶりに遠くから眺めていれば、この身を乞うてくれるだろうか。他にも溜め込んでいる分を教えてくれるだろうか。

なんだか、そんな恋人の姿が見てみたくなって、リョーマは呼吸が整ってからも、何回も菊丸が目の前を通り過ぎて行っても、大石の隣に立ち呆けてコートの方を眺めていた。

何度か、手塚はこちらをちらちらと見た。それが、なんだか楽しかった。

「…越前も、人が悪いな」

すぐ目の前をまた通り過ぎていった菊丸に「英二、あと5周だ!」と励ましの声をかけた後、大石は苦笑してリョーマにそう言った。
手塚が可哀想だ、とも。

「恋は駆け引きッスよ、大石副部長」

にんまりとリョーマが笑みを浮かべて大石を見上げ返した丁度その時に、我慢ならなくなったらしく、コートを囲っていたフェンスの一角に埋め込まれた扉が開いた。

そして、そこから泣きそうな顔をして出てきた手塚を見留めて、リョーマはやっとそちらへ足を向けた。
彼の傍へ辿り着いたら、ごめんね、と頭を撫でてやろう。


















黄色い彼女の本音は彼
黄色い水仙の花言葉は『私の愛に応えて』だとか。生け花専慶流より。
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