四面楚歌
日本の中学男子としては平均よりも長躯を蹲らせて、何か手を動かしている彼の姿を、部室までの道程半ばで手塚は発見してしまった。
「………」
幻聴で無ければ、彼の手元からは花鋏の軽快な音がしていて、又、幻視で無ければ、彼がしゃがみ込んでいるその場所は、用務員が世話をしている花壇。
「………………………………。俺は何も見ていない」
見ぬフリ見ぬフリ。
そのまま何事も無かったかの様に取り繕い、通り過ぎようとするけれど、
「あれ?手塚? 手塚ーっ」
足音にも細心の注意を払っていた筈だというのに、彼は手塚の存在に勘付いてくるりと振り返り、大声で手塚を呼んだ。
これでは更なる知らない振りはしようがない。そのまま通り過ぎようとしても、後ろから首根っこを取っ捕まえられるに違いない。
己のタイミングの悪さに内心嘆きつつ、渋々、手塚は彼の方へと歩み寄って行った。
「…部長、何なさってるんですか?」
「何って、見ればわかんない?あやめ狩り」
そう言って白い歯を見せて笑うリョーマの手の中にあるのは、狩られた―――基、刈られた濃い紫色の菖蒲。
覆水盆にかえらず。切断した花はもう元には戻らず。この惨状を用務員のあの老婆が見たらなんと悲嘆に暮れるだろうか。他人事乍ら、手塚は落胆した。
「あの…お言葉ですが、部長。ここは用務員の方が育ててらっしゃる花壇だと云うことは――」
御存知ですか?と手塚が尋ねる前に、リョーマはあっさりと「承諾済み」と答えた。
「1年の時から貰ってってるからね、オレ」
しゃきん、と小気味いい音を立てて、茎が根元の辺りから切られた。黄色と紫の虎斑模様が揺れて傾ぎ、待ち伏せていたリョーマの手の中に倒れ込んだ。
その様を見遣ってから、「あの…」と言い及びつつ手塚は湧いた疑問を投げた。
「1年の時から、ですか?」
何の為に?と続け様に問う。
「あ、ひょっとして手塚、知らない?5月5日の端午の節句」
「いえ…知っていますが…」
息子一人の手塚家では毎年、床の間に鎧や兜を纏った五月人形が飾られる。それに加えて手塚ももう小学校は上がった年の頃だ。そんな常識的な休日を知らないわけが無い。
「端午の節句って云えば、やっぱ菖蒲湯でしょ?それの為に貰ってんの」
「はあ…」
曖昧に言葉を返してくる手塚に、リョーマは自分が風呂好きであることや、入浴剤を頻繁に買っていること、その中でも特別に気に入っているものなどを一方的に喋った。
その間、手塚は、はあ、とか、へえ、だとか、心此処に非ずと言った相槌を返すばかり。
「そうだ、手塚。5日にうち来る?」
風呂の話題からくねくねと矛先は外れて、リョーマはそう目を輝かせながら言った。
下心が透けて見えんばかりの顔付き。
けれど、誘われた方の手塚は喜んで同意するでも無く、困った様子で断るでもなく、また「はあ」と胡乱な返事。
怪訝そうにリョーマは顔を顰めた。
「手塚?オレの話聞いてる?」
「聞いてはいます………。あの、部長……」
眼鏡の向こうの目を右に左にと泳がせる手塚は何かを言い躊躇っている様子。
どうしたんだろうか、とそんな手塚を前に訝しんだ顔を収めてリョーマは首を傾げた。
「菖蒲湯には中学1年の頃から…?」
「うん。それまでは日本に居なかったから」
「中学に上がられてからは、この花壇から菖蒲を頂いているんですよね…?」
「うん。それで風呂入ってる」
こくりとリョーマが頷けば、手塚の逡巡は深まったらしい。目が泳ぐことこそ止めたけれど、リョーマの手の中の菖蒲を注視し始めた。
何事かを言おうとしたり、それを止めたりして、居心地悪そうに何度か手塚の口が薄く開いたり閉じたりを繰り返す。
「なに?言いたいことあるんならきっぱり言ったら?」
「その…なんというか、部長の尊厳を傷つけてしまっては申し訳ないんですが………」
痛ましいくらいの苦悶の表情を浮かべて、手塚はリョーマの手からも目を逸らして、剥き出しの土に下ろした。
「勘違いをなさってるようなので…」
「かんちがい?」
「その…菖蒲湯は花では無く、葉を浮かべて入るのが普通です」
「え?でも、うちの親父が――………。……あの野郎、騙しやがったな…」
帰ったらタダじゃおかない、と不穏な小声を漏らすリョーマに、手塚は尚も言い募った。語調は矢張り躊躇いがちだ。
「それから、あの…菖蒲湯で使うのはアヤメじゃないです」
「え?でも、1年の時に不二と乾がこれ見乍ら菖蒲湯の話を――」
「よく間違われる方がいらっしゃるんですが、ショウブとアヤメは漢字こそ一緒で、属性も一緒なんですが、違うものなんです。しかも、菖蒲湯の場合に使うのはサトイモ科のショウブの方です」
手塚の話を最後まで聞き終わり、その内容をよく咀嚼し、嚥下してから、それはそれは凶悪な顔でリョーマは唯一言。
「…あいつら…舐めやがって」
蘊蓄をひけらかせば底の無い乾が花壇に植わっているアヤメがショウブで無いことくらい、菖蒲湯に使うものがアヤメの花で無いことくらい、絶対に知っていた筈である。そして、不二はいつものどこぞの菩薩にも負けず劣らずな笑みで乾と共に同意してみせた。
それがリョーマを冷やかす文句であったことは火を見るよりも明らか。そして、今年になってもリョーマがそれを知らなかったということは、誰も正解を教えてやらなかったということ。
揃いも揃って、何と陰湿な。
リョーマが舌打つ相手には、用務員も数に入っている。使用用途を明確に告げて了承を得たというのに、誤りを正すような素振りは一切無かった。
いつも笑顔で首を縦に振っていたが、あれは快諾した笑みでは無く、嘲笑の一種だったのだろう。
「あの…部長…?」
強面をしたまま、次の言葉を続けないリョーマに代わって、手塚がゆっくりと話しかけた。振仰いだ先の戸惑いがちな手塚が、今のリョーマには何だか天使か妖精か、兎に角、清い存在に見えて、
「…わっ!?」
思わずリョーマは手塚を抱きしめた。そのままぎゅうぎゅうと腕に力を込める。腕の中の手塚は苦しそうにか、若しくは慌ててか、藻掻いた。
「…手塚、二人であいつらこてんぱんにしてやろう?」
不穏当な発言の先、手塚の首の後ろで絡めたリョーマの手の中では和やかに菖蒲が揺れた。
そして、リョーマの頭の中では、差し迫った5月5日は手塚と正式な菖蒲湯に浸かろうという壮大な計画が起つことになる。
四面楚歌。
これが原作年齢の塚さんだったらきっと連中と同じく揶揄ってリョーマさんで遊んだと思われます。
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