un-limited (the est)
















「そういえば、この間、姉さんから面白い事を聞いたんだ」

そう言って、持参した球形のガラスポットを、ヘッドレスト側の壁に沿って置かれているローチェストの上に置いて、不二は微笑みを向けた。その先に居るのは十数分前に何度も執拗に鳴らされたチャイムの音で叩き起こされ、二度寝を決め込んで部屋の角に据えたベッドに潜り込んでいるリョーマ。こちらの話は半分程度でしか聞いていないだろう。
客人が彼だとドアを開けて知ると、何用かと尋ねるよりも「どうぞご勝手に」と言い置いて家に上げた。不二がこうして家を訪れることが初めてでは無かった。
そして、不二のテリトリーはリョーマのこの賃貸住宅だけでは無く、菊丸、乾に桃城と、一人暮らしをしている元部活仲間全員に渡る。どこへ行っても今や同じ扱いを受ける。桃城だけは、妙に畏縮して迎えてくれるけれど。

時折思い出した様にふらっと立ち寄って、少しのお喋りをしたらさっさと帰る。それが彼のいつも決まった遊興だった。
勝手知ったる他人の家。お茶請けならぬ話請けに自宅からいつも彼はポットとカップ、それから紅茶やハーブティの類を持ってくる。特にリョーマの家は本人の好みもあって、そう言った洒落た飲み物が無いせい。置いてあるのは煎茶や焙じ茶、玉緑茶などの日本茶葉ばかり。彼の付き合って数年になる恋人の好みもその傾向だから、仕様がないと言えば仕様がないのだろう。

「"どんな賛美でもあなたを語り尽くせない"」

意識を夢の世界へと向かわせつつあるリョーマが身を横たえているベッドの淵に腰掛けて不二はそう言った。二人分の重さに不平を唱えたベッドの声を聞いて、瞼を下ろしにかかっていたリョーマは眠りを妨げてくる不二を疎ましそうに睨み上げた。

「フェンネルの花言葉だそうだよ」
「…………。フェンネルって?何スか」

逃げて安息の地で二度寝を貪ろうという算段なのか、不二が腰を下ろした地点とは逆の壁側へとごそごそと蠢いて移動して、リョーマが尋ねれば、

「これ」

と不二はすぐ傍のローチェスト上で葉の浸出を待つポットを指し示した。眠た気な顔を擡げて、リョーマも一瞥する。その顔はすぐに枕に戻されたけれど。

「ハーブのひとつだよ。魚料理のスパイスなんかにも使うけどね」

漢方では茴香とも言う、と言い加えるが、リョーマからは大した反応は無い。ふぅん、と鼻を鳴らしてるのだか、曖昧なだけの相槌なのか、よく判別できない瑣末な声が遣ってくるのみ。
そんなリョーマの態度を叱るでも詰るでもなく、人当たりの好い笑顔で不二は続けた。
ハーブティとしても頃合いに浸出が終わった頃に。

ポットから揃いのガラス製のカップに透明度の高い液体を注ぎ、そしてそれに少しだけ口を付けてから、カップを掲げた少し戯けた格好で不二はベッドに稜線を描くリョーマを見下ろした。

「どこかの越前リョーマさんにとっての某手塚国光さんみたいじゃない?この花言葉」

姉さんから聞いた瞬間に可笑しくってさ。
そう言っては含み笑いを零しつつ、掲げていたカップに不二はまた口を付ける。
不二の口から出た手塚の名前に、やっと興味を引かれたらしく、眼下のリョーマが視線を寄越してきて、やっとまともな口を利いた。漸く構ってくれる気になったか、とハーブティをこくりこくりと飲み下す不二も視線だけでそちらを窺う。

「確かに、あの女王様は、どれだけ褒め讃えたって満足なさいませんよ」
「うーん。僕が言いたかったのは、君にとって手塚は地球上の言葉では言い表せないくらいに素敵な人だと思ってるんじゃないか、ってことなんだけどな」

困り笑いを浮かべた不二は一度、カップから口を離して、膝の上に下ろした。
不二の質問の意図を彼自身の発言から漸く汲み取って「ああ、そっちの方ね」とちっとも悪びれた様子も無くリョーマは呟く。

「賛美の言葉が飢饉に襲われるくらいに素敵な人ではありますけどね、」
「起き抜けから惚気?参ったな」

苦笑する不二に、話はそれだけでは終わらないのだと、リョーマは遮る。

「最近、女王様気質が板についてきちゃって…」
「なに?まさか、俺の靴をお舐めなプレイとかにまで新出したりしてるの?」
「や、そういう女王様じゃなくて………」

ええと、と言葉を選ぶ様に言い淀んでから、世界最大にワガママ?とリョーマは首を傾げつつ言った。語尾が上がり気味でどこか尋ねる形なのは、本人的にそれで言い纏めてしまってもいいものかを悩んだせいかもしれない。
それ程に、自分の恋人は度を越えてきている。

リョーマが語って曰くは、
その一、お茶ひとつにしても自分で取りに動かない。「おい越前」その一言だけで要求してくる。
その二、その日あったラッキーな出来事を弾んだ調子で報告してみれば、返ってくるのは「自惚れるなよ」とどこか嘲笑染みた顔色と声音。
その三、最初は組み敷いていた筈なのに、気が付けば仰向けになった自分の股の間に乗られていること。
そして極め付きに、あちらが乗り気で無い時は絶対に応じてくれない。逆に、こちらが幾ら乗り気で無くとも、あちらがその気ならば、それこそ時や場所を選ばず、ふしだらに求めて来てはリョーマを陥れて、満足を勝ち取る。

出会ってすぐの頃に見た、手を握っただけで顔を紅潮させるという奥手な彼の姿は、現在では塵と消えていた。

色々と困ってんですよ、これでも。そう溜息を落としたリョーマの口端の表情は言葉の額面以外にも何かを持っていて、どこが?と不二は苦笑した。

「随分と、楽しそうだけど」
「積極性のある人間は嫌いじゃないってだけですよ。ホントに手、焼いてんスから」

どっちが年上なんだか判らない、という様なことをリョーマは続けて、旋毛の辺りをぽりぽりと掻いた。
楽しそうだねえ、とのんびりと同じ台詞を繰り返しつつ、不二はまた手の中のカップを持ち上げて一口飲んだ。

「だから、楽しくないって」
「ウソばっかり。君みたいな子が手塚から求められて嬉しく無い訳ないでしょう?毎回、引っかかってるクチじゃないの?」

そしてそれは確信犯ではないのか、と更に詰れば、さあどうですかね、と嘯かれる。的は上々に得てはいるらしい。
恍ける様が明確な言葉での肯定では無いにしろ、如実に語っている。

「まあ、高校の終わりからその片鱗はあったよね、手塚は。帝王ぶりなら中学の部長の時から健在だったし」
「物事の慣れってのは時に困りもんスよね――……」

しみじみとやけに感慨深気に遠くを見詰めるリョーマに、不二はまた小さく笑う。
此処へ来ると飽きないなあ。そんな風につい思ってしまって。
まだ年若いせいで、気疲れした顔がリョーマにはとんと似合わないせいだ。加えて、リョーマという人間を気疲れさせる人間はそうそう居ない。どちらかと云えば、彼は気疲れを寄越してくるタイプだったから。
中学の頃から変わらぬ、我侭大王、不遜な態度。そんな彼に、まだ関係を持つ部員仲間達は手を焼きつつも、そうすることを楽しんでいる。全員にとっての、手のかかる弟の様な存在のままなのだ。

それが、たった一人に限って手を焼く側になっているなんて、そしてその様を想像するだに可笑しさが込み上げてくる。
ふんぞり返って我侭を言う手塚に、その前で窘窮した顔をしつつもその命に従うリョーマ。
やっぱり可笑しい。くすくすと不二はお茶を飲む手を止めてまで笑いを漏らした。

そして、一頻り笑ってから、

「それじゃあ、僕の画策は君には楽しい出来事になるかもしれないね」

表情を笑顔のままに、そう言った。画策?とリョーマは首をゆるりと傾げつつ尋ね返す。
画策、と念を押すかの様に不二は更に自分の言葉を反復し、首をひとつ縦に下ろした。

「ここに来る直前に、手塚に電話しておいたんだ。今から寝込みの越前を襲いに行くけど君も行く?って」
「……………襲いに来たんスか…?不二先輩……?」
「まさか。それが本来の目的なら君は今頃、腰がくがくで立てない状態だから」

飽く迄、冗談だよ、と笑って言う不二が空恐ろしくて、リョーマは歪な笑顔で不二の笑みに釣られておいた。

「それで、あの人は何て?」

まさか嬉々として承諾した訳ではあるまい。自分の役割は何かということは充分心得ている人だから。
たとえ、リョーマの上に跨がることに快楽を覚えている人であったとしても。

案じ顔のリョーマからの問いに、不二はそれはそれは楽しそうににっこりと笑った。

「無言で電話を切ったよ。凍り付いた気配が向こうからしたから、今頃きっと嫉妬に燃え狂ってこっちに向かってるところじゃないかな?」

そんな手塚、最近見てないんじゃない?楽しみでしょう?
ふふふ、と頬を緩めて笑う不二が最後の一口をカップから飲み下した時だった。ぞくり、と正体不明な悪寒が、リョーマを襲った。

それは唐突に。
ガアン、と玄関のドアが少し離れたところでけたたましい音を上げて開いた。幾らかほのぼのとした空気が流れていた寝室のドアが乱暴に開かれる。
揃ってドアを振り返ったリョーマと不二の目に飛び込んでくるのは、額から幾筋もの汗を滴らせ、僅かに蒼白とした顔の話題の人。

「やあ手塚。遅かっ――」

遅かったね。そう告げようとした不二につかつかと手塚は歩み寄ったかと思えば、不二が最後まで告げきる前に不二の腕を取って無言で引っ張った。言外に、立て、と見下ろしてくるいつもより鋭い目が告げていた。
その双眸をきっちりと見返した瞬間に、堪らず、ぷうっと不二は吹き出した。彼の予想を遥かに越えた、いい嫉妬狂いっぷり過ぎた。

催促するかの様に、手塚は不二の腕をぐいぐいと引っ張る。無言のまま。

「ごめんごめん。解ったよ。今、退くから。あ、ちなみに、越前の身はまだ綺麗なままだから。安心していいよ」

まだ治まりきらない笑いを何とか噛殺しつつ、不二はやっと立ち上がった。
そこに直ぐさま、手塚がどかりと腰を下ろした。その様に、不二は彼としては珍しく声を立てて快活に笑った。
目許に涙すらうっすらと浮かんでいた手塚の姿が、不二の笑いのツボをダイレクトに抉っていた。当分は笑いのネタに困らなさそうだ。

最後には、ひいひいと引き笑いを始めつつ、この部屋に自らの手で持ち込んだカップとポットとを携えて、不二はドアから出て行った。それじゃあまたね、と別れの挨拶も無く、颯々と帰り支度をして玄関のドアを潜っていったらしい。手塚が開いたきり、閉めた気配の無かった玄関のドアがぱたりと音を立てたものだから。

「………………ええと」
「…」
「……身は、潔白ッスよ?不二先輩も言ってたけど」
「…当然だ」

低い上にからからと乾いた声。極度の緊張の時に喉が貼り付いて上手く声を出せない時のそれと酷似していた。

それ程迄にこの身の事を案じてくれたのかと思うと、随分と久方ぶりに、リョーマは手塚へと可愛い、という思い抱くのだった。
それっぽっちの賛美では、目の前のこの人は語り尽くせないけれど。


















un-limited (the est)
からかい甲斐のある子。氏は手塚。強かと見せかけて実は繊細な子。名前は国光。
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