ハイドアンドシーク
















遠い遠い、空の青。屋上に据えられた給水塔の上で、身を仰向けさせて間近でそれを見る。
この場所が、学校では一番空に近い。
初夏を過ぎた、夏の勢いを増して晴れ渡る空の下の今日は、太陽も近くて、目蓋を下ろしても残像が網膜に焼き付いていた。

瑞々しい夏空。それをまた見上げて、ふと目の前を覆っていたレンズを空へと持ち上げた。

「逆に見えにくい気がするんだけどなあ…」

手にしたものを降ろしたり上げたりしてみれば、空が近くなったり遠くなったりを繰り返す。
本来ならば、視界をクリアにする為の道具なのだけれど、生憎とこれが借り物であるせいか、漂う雲の細部が見えるどころか、変に歪に曲がって見える。

ぐ、と腕を伸ばして、掲げたレンズ向こうの空へと眼を凝らす。

「早く見つけに来ないかなあー」

そう漏らしたリョーマの足下で、五限目開始の予鈴が鳴っていた。
手塚から強奪した眼鏡を、リョーマはまた顔に乗せ、溜息混じりに眼を伏せた。
ぽかぽかと温かい陽気は、眠気を誘い出すには充分。
















肩を怒らせて廊下向こうからやってくる同学年の少年を見て、不二はかくりと首を真横に傾げる。
たしかつい数秒前に予鈴は鳴っていた。あと10分もすれば、午後の授業が各教室で始まる。―――だというのに、彼は自分の教室とは真逆のこちらへと進んで来るという奇態を晒していた。
しかも、いつも彼の素顔を隠しているアレが見当たらない。

腕を組んで尚も謎を感じ続けていた不二と、裸眼の手塚の目が合った。

「大石、丁度良かった」
「…大石?」

明らかに自分に向かって呼ばれた別の友人の名前。その名前の主を探して、不二の首は前後左右へと動くけれどその友人の姿は無い。
予鈴が鳴る3分前には既に自席にいる優等生然としたあの友が、予鈴後のこんな時間に廊下にいる訳はなかった。
他にもこの階に大石君はいるけれど、手塚が声をかける大石君は一人しかいない。でもその大石君は今、ここにはいない。立っているのは不二君。

それでも、視線の先で腕を組んで訝しがっている不二を大石だと完全に思い込んでいるらしく、手塚は長いリーチを生かしてものの数秒ですぐ傍までやってきた。その顔色には、相手を見誤ったという様な素振りは微塵も無かった。非常に、平然とした顔。
自分と大石とでは、背丈も髪型も違うというのに、この至近距離で何をどう間違っているのか。不二は呆れや怒りを通り越して、尊敬にも近い思いを真顔の手塚に覚えた。

「越前を知らないか」
「うーん。知らないなあ…。越前がどうかしたの?」

単刀直入に尋ねられた事項には、生憎と心当たりが無い。
手塚が起こした桁外れの勘違いを修正もせず、不二は逆に尋ね返した。流石に、声音と口調で気付くだろうと推測し、その時の手塚のバツの悪そうな顔を見たがったのだ。

けれど、我等が最強の部長様は、変わらず真面目な顔を崩す事は無く。

「いきなり眼鏡を奪われたんだ」

そして、疾風の如き逃げ足でぴゅうと逃げられたと、実に淡々と回答を寄越して来る。どうも、未だ気付いてはいないらしい?
思い込んでいる頭では、目の前の人間の声が少し違うからと疑う余地は無かった。
ああ、これは楽しい、と不二は吹き出してしまいそうになる笑いを必死に噛殺した。ここまでの至近距離で人間違いをされる経験なんて滅多にできない。

「それで眼鏡をかけてないんだね?で、それを眼鏡代わりに預けられたってこと?」

不二が指差してみせるのは手塚の左手。
そこには、リョーマのトレードマークでもある、某大手スポーツメーカーの白く目映いキャップ帽。
手塚は、ひとつ首を縦に振り降ろす事で、肯定の意を示してみせた。




コレ、ちょっと貸して
は?
メガネ。
えちぜ…っ!
おー、メガネだメガネだ。グラッシーズだ。
…………返さないか
代わりにこれあげる。

そしてぽすんと、可愛らしい音を立てて頭に被せられ、鍔で視界が遮られ、真っ白な世界の遥か向こうへと、きゃっきゃと笑い、駆けていく足音。
手塚が鍔を押し上げた時にそこにあったものは、彼方から響いてくる越前リョーマの笑い声のみだった。



「とりあえず、越前を探すのは5限目が終わってからにしたら?もう5分もすれば始まっちゃうよ?」
「いや…あれが無いと黒板の文字もまるで見えないのでな。ノートのひとつも取れない」
「でも、あと5分で見つかる?越前」
「もう、5限目は捨てる。6限に間に合えばそれでいい」

割り切るのが上手いのか下手なのか、あまりよくわからない。
こういうところ大雑把なんだよね、と尚も可笑しさを堪えたまま、不二は手塚の顔を見上げた。
道具の助けを借りないと物もまともに見られない低視力では、今、この栗毛が坊主頭に見えているらしい。現実はひとつしか無いというのに、別の現実を信じきっている様は、傍観している者からすれば可笑しい以外の何者でもない。

「見当はついてるの?」
「日の当たりがいいところだろうな、恐らく。猫も子供も、日光の麓が好きと相場が決まっている」

猫は日当たりのいい縁側で蜷局を巻き、子供は日当たりのいい公園できゃっきゃと声を弾ませて駆け回る。
猫と子供ね。あの子の外見に当て嵌める単語としては間違ってはいないかな。
不二の採点としても、そこを押さえておけば及第点はぎりぎり与えてやってもいいだろう。猫は孤独を好むフリをし乍ら、構わないとじゃれついてくるし、子供は大人には判らない感情を基準に突拍子も無い行動を起こしたりもする。
それらも、リョーマには当て嵌まりそうに思われるけれど、彼は、非常に強かな一面を持ち、そして先を見据える眼力を手にしている。小憎らしいばかりの愛玩動物や幼児とはそこで一線を画している。
手塚からすれば、眼鏡を強奪されて、悪戯をされた気分なのだろうけれど、相手はちゃんとヒントを与えている。ただの悪巧みだけではない。

「それじゃ、今からその越前の昼寝スポットに探しに行くんだ?」
「ああ。引き止めて悪かったな、大石」

そのまま、脇を擦り抜けていこうとする手塚の腕を捕まえて、深く、不二は微笑んでみせた。

「手塚、生徒会の用事が忙しくても、ちゃんと越前と遊んであげないといけないよ」
「は?」
「遊んであげるべき時に遊んであげないから、そんな目に遭って、僕を大石と間違えるんだよ」
「……は?」
「僕は不二。不二周助」
「……。不二、なのか?」
「そうだよ。失礼だね。僕程度でも見誤るんだから、越前のことなんて、君はもっと間違って捉えてるんだろうなあ」

はあ。と不二には珍しく溜息。
どうしてそこで溜息が出てくるのか、手塚には当然、理由や原因が解らないから、かくりと小首が傾げられた。

「なんでもないよ。…あ、先生来た。それじゃ、ちゃんとそれ、越前に返してあげるんだよ?いいね?」
「え?あ、ああ…」

険しい顔で人差し指を突き付けられ、多少、戸惑いを感じながらも手塚は頷いてみせる。それを見留めてから、不二は、じゃあね、と自分の教室へと入っていった。

「被害者は俺の筈なんだがな…」

さも、害を被っているのは越前側だと言わんばかりの不二の口調に、聡くなりきれない手塚はまた首を傾げるのだった。












ふわふわと夢の中を漂っているところへ、真下のドアが開く音を立てた。安眠を妨げられたその物音に、リョーマは忌ま忌まし気に目蓋を持ち上げ、ゆっくりと身体を起こした。
途端に、本来の視力とは合わないプラスチックレンズが視界をぶれさせて、微弱に目眩がした。

「……っぅ…」
「越前?」

冠りを振って、目眩を振払おうとするリョーマの背中へ、手塚の声。
寝起きという事も相俟ってなのか、ゆったりとリョーマはそちらを振り向き、それから、にっとどこか楽し気に口端を吊上げた。

「やっと、遊んでくれる気になった?ああ、そうだ、それと、これ。」

ちっとも物がよく見えないよ、と、勝手に奪っていった眼鏡を給水塔の上から真下の手塚へと、ぽい、と放り投げた。
割れては困る代物。弧を描いてこちらへと落ちてくるそれを、手塚は確りと空中で受け取って、相棒の無事に嘆息を吐いた。

「そんなのに頼ってるから、周りがよく見えないんだよ」

文字通り、上から物を言う態度。
給水塔のコンクリートの上で膝を折り、その折った膝の上にだらりと腕を投出ながら、リョーマは酷く不愉快そうな顔。
どこの不良少年だろうかと、漸く手元に返ってきた眼鏡の蔓を耳に掛けながら手塚はリョーマを視線で窘めた。

「これからは偶には外した方がいいよ、それ」
「外すとものが見えん」
「かけてても碌に見えてないんだから、あんまり必要ないでしょ、それ」
「…何を、怒っているんだ?」

不二といい、リョーマといい、脳構造が手塚には杳として知る術はない。
不二との方が相性がいいんじゃないか?と嘯いてみれば、バカ、と何故か怒られた。手塚には、解らぬことばかりだ。恰も自分の方が何も知らぬ子供の様にすら感じられた。

「不二先輩とは考えが時たま似てるだけだよ。相性はアンタとサイコーなの。せ、え、の…」
「ちょ、待て、お前、そこでいきなり立ち上がって腕で明らかに反動を付けて今にもこちらへ飛び下りてきそうなその動きはなんだ」
「そのまんまだよ。飛び下りるから、ちゃんと受け止めてよね」

せーえのー……っ

掛け声と共に、リョーマの足はコンクリートを強く蹴って、その身がひらりと空中へと投げ出される。
次の瞬間には、手塚はリョーマから預けられたままだったキャップ帽を放り出して、落ちて来たリョーマを何とか回収した。
給水塔から、屋上の床までは、優に2メートル以上ある。拾い損なわなくて良かったと、ずっしりとリョーマの重みを腕の中に抱き乍ら、手塚は腹の底から息を吐き出した。そこには、リョーマが踏み出した時に咄嗟に巻き起こった緊張感や恐怖感も綯い交ぜにされていた。

「そうそう。こうやって、ちゃんとオレを受け止めてくれなくちゃね」
「……お前は…何がしたいんだ…全く」
「今日、遊んでよー」
「はあ?」
「拗ねてんだよ。解るでしょ?アンタ最近構ってくれなかったじゃん」
「あれは、生徒会の仕事が忙しいとちゃんと言っておいただろう」

リョーマを抱えたまま、渋面を作る手塚の顔を、凝っと睨み付け、すうっ、とリョーマは息を吸い込んだ。
それは腹の奥底、腑の全ての力を込める為。

ふ、と吸気を止めて。



バ、

「カじゃないの?ちゃんとその仕事が終わった後の埋め合わせの話もちゃんと織りまぜてその話はしろって言うの!アフターケアがなってないんだよね、アフターケアが。ただ『忙しいです』『はいそうですか』、で済ませる関係じゃないでしょ、オレ達」

物をきちんと見る為にメガネをかけているんだったら、ちゃんと長い先の事も見据えなさい。
腕の中にすっぽりと収められている立場の癖に、どこかの教師気取りの口調で、そう告げられた。

そうして、来週末に予定を取り付けられ、きちんきちんとするリョーマの対応に、両親のどちらかはA型なんだろうか、と、見当違いな思いを抱きながら、手塚はリョーマから指南を受けるのだった。


















ハイドアンドシーク。かくれんぼ
隠すと探す。書き始めはただ単に、給水塔の上に隠れて鬼を待つリョーマさんと、それを探して眼鏡を取られて帽子をもらって校内をふらつく手塚だけを書く筈だったんですが、気付けば何かが付随してました。
…あー…よく、あります…こういうこと……うん。
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