I look at just you.
















あなただけしか見えなくていいよ。

昨日、手塚に向けて言った口説き文句のひとつをリョーマは今日、初めて後悔した。
軽々しく、見えるものを限定するものじゃない、と。





朝が来て、目が覚める感覚はあるのに、目には何も映り込んでこなくて。在るべき部屋の壁も家具も窓も、何も無い。基、見えない。
あれ?と思わずその不思議さにリョーマは首を傾げた。
意識的に瞼を何度か瞬かせてみれば、瞼が下りる度に、確実に黒い瞼の裏の世界が見える。

目を閉じれば黒くて、目を開けば白い。

見渡す限りの、一面が白。決してそれは銀世界が舞い降りた朝に感じ得る感覚とは全く別のもので。
白の中に放り込まれている、というよりも、目の前を剥がせない白い画用紙で覆われているような、そんな、凹凸も陰陽も何も無い、過剰なフラットな白い世界。
どっちが上で、下で左で右か。首を回しても底も角も無いものだから判断が着かない。
『感覚』としてある手を目の前まで持ち上げて見てみても、何も映り込んでこない。

おかしいな。
リョーマは再び、首を傾げ、手に落としていた視線を持ち上げた。その際に、向こうの方で何か黒い点がもぞもぞと動いていて、手を伸ばしてみるが何にも触れない。
なんだろうか、と折角起こした首をリョーマは三たび、ことりと傾けた。

胡麻か蟻の様な遠いそれは置いておいて、取り敢えず動いてみようと足を動かす。歩く爪先は姿としてやっぱり見えないけれど。
いつもの”歩く”感覚で足を動かしてみる。いつも起床後必ず辿る、制服の詰まったクローゼットへと向かう軌道。
その通りに歩いて、歩き続けてみたら、突然、額が何かにぶつかった。そんな衝突する障害物ああるだなんて用意の無かったリョーマは盛大に頭を何かにぶつけ、よろめいてそして後ろへと昏倒した。
仰向けに倒れれば倒れたで、後頭部や背中がすごい音を立てて何かにぶつかる。それ以上、沈んだりしないことから、リョーマは「ああ、ひょっとして床に頭を打ち付けたのかな」そんな風に思い付いた。

昨晩、確実に部屋のベッドで寝て、ついさっき、ベッドから起き上がったのだから。自分が今、居るのが、己の部屋だという認識がリョーマにはあった。
いつもの通りにクローゼットに向かって行って。
今、背中の下にある水平な堅い板の連なりの感覚が床だとするならば、額をぶつけたのは、ではそのクローゼットだったのか。
安易に想像を巡らすとするならば、そういうことになる。

床に仰向けになれば、いつも見える天井も白い今日はまるで見えない。
ただ額と頭の後ろがずきずきと痛みに疼くものだから、リョーマはそれが治まるまで少し待った 。
そうしてただ寝っ転がってぼんやりとしていれば、いつも通りの母親の声が下から響く。

「リョーマ、いつまで寝てるのー?」

さっさと起きなさい。また遅刻しても知らないわよ。
いつものあの台詞。今日はちゃんとその台詞が飛んでくる前に起きたのに。

ぶすくれつつ、身を起こしたところで、聴覚は変わらぬ正常さがあることにリョーマは気付いた。奇妙なのはこの視覚だけ。

また何かにぶつかって倒れ込むのは勘弁、と、恐る恐るリョーマは立ち上がって、そしてひとつ、安堵の嘆息を吐いた。今度は、何にもぶつからなかった。
そして手探りでクローゼットの扉を探し、毎日の要領で学生服を見つけて寝間着を脱いだ腕に通した。

部屋から家の玄関を出るまで、リョーマはそうやって慣習していた感覚だけを頼りに動いた。まだ1年も住んでいない我が家だけれど、慣れというのは意外と身を助けてくれるものなんだな、と小さく己の体に感謝したりしてみつつ。






その日、手塚が初めて見た越前リョーマは目を皿の様に剥き乍ら、足下をふらつかせ、頻りに壁へと手を伝わせている、何とも奇妙で滑稽な後ろ姿だった。
新種の遊びだろうか、とも思うけれど、直ぐ目の前に迫った電柱にがつんと顔面をぶつけた辺りで、そうではないんじゃないだろうかとその発想を打ち消した。彼は何の躊躇も無く、顔面を激突させた。

歩調は変えることなく、電柱の下で強かにぶつけたらしい顔面を両掌で覆って蹲っているリョーマの背まで歩み寄り、手塚は声をかけた。

「おはよう」
「…………?」

手塚がかけた声に、ゆっくりと覆わせていた掌から顔を離して、額に鬱血の痕を残したリョーマが見上げてくる。そして目がお互いに合った瞬間に、リョーマだけがぽかんと口を間抜けに開いた。
そんな唖然とされる顔をされる覚えなどまるで無い手塚は訝しそうに少しだけ眉根を顰めた。

「どうか、したか?」
「部長は見える」
「当たり前だ」

手塚はリョーマの背後に立っていて、そして未だ蹲るリョーマはその手塚を振り返り、そして見上げているのだから。
取り敢えず、いつまでも電柱の麓で蹲らせているのも如何なものかと、手塚はリョーマに手を貸してやり、その場に立たせた。きちんと垂直に立たせてやってから、手塚が手を離そうと腕を引けば、リョーマは離してくれなくて。逆に、ぎゅう、と掌を握り込まれた。

「越前?」
「あのさ………前言撤回していい?」

今日のリョーマが手塚に告げた言葉はつい先程の一言のみ。それを撤回するのかと構えて、手塚が相手の言葉の先を待っていれば、

「オレ、アンタ以外にも色々見たい」

手塚の中では『前言撤回』の文句にちっとも相応しくない言葉の続きをリョーマは溜め息交じりに呟いた。『部長が見える』のその一言をまるで撤回していない前言撤回。
何を撤回してその言葉を呟いたのか、手塚の頭の中では直ぐにはリンクしてくれなくて。
ひょっとしてまだ寝惚けているのだろうかと、不審がる手塚を仰いで、リョーマは少し不貞腐れた顔を向けた。

「このままじゃ、オレ、アンタ以外何も知らなくなっちゃう」

だから元に戻してよ。
薮から棒のそんな我侭を零されて、手塚は溜め息をひとつ。爽やかな朝の空に向けて吐き出した。
そしてリョーマに視線を戻して、唯一言。

「意味が解らん」

往々にして、説明が不足し過ぎている。 リョーマの見ている世界など見えない手塚からすれば、現状だけで全てを理解しろと言われてもかなり難しい。

徒労感に襲われた顔でそう告げられたリョーマは一層、顔を小難しく歪めて、何事かを告げようと口を開きかけるが、ふとそれを途中で止めて、支えも兼ねて掴んだままだった手塚の手にふと視線を落とした。
手塚も、釣られてそちらを見遣る。

ものの2秒か3秒か。その程度の僅かな時間、繋がった手を見下ろしていたけれど、徐にリョーマはその手塚の手を掲げて、それで己の両目を塞がせた。

「越前?」
「見ていい、って言って」
「?」

果な、と手塚は手塚は首を左に倒した。
双眸に手塚の手を宛てがった、鼻と口だけのリョーマは追い立てる様に同じ事を言う。

「見ていい、って言って」
「……。何故?」
「アンタが許してくれれば見える気がするの」

もう、理論としては無茶苦茶だ。きっと、根拠も何も無い。リョーマ自身だって直感なのだろう。
話の発端も、彼の現在の状況も、そして彼が結末として何を迎えたいかもさっぱりわからぬまま、本日二度目の溜め息をこっそりと零した後、片手をリョーマに預けたままで手塚は息を少しだけ吸い返して、唇を解いた。

「見て、いい」

じっくりと数秒、間を置いて、緩々とリョーマは手塚の手を離す。
そこには、不愉快な顔をする手塚の背景にいつも通りの通学路がちゃんと在った。

















I look at just you.
言葉通りの事がもしも起こったら、現実問題としてはちょっと大変。
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