気立ての良い男
自宅での筋トレ用に、と一言添えられて、リョーマは乾から一枚の紙を受け取る。
B5程度のその白い紙には、リョーマが嫌厭する、牛乳、の文字を含めたリョーマ用のトレーニングメニューが何行も綴られていた。どれも、道具を必要としない簡単な運動ばかり。
繁々とそれらを眺めていたリョーマに、オーバーワークになるから毎日同じ部位ばかり鍛えない様に、と忠告して、乾は身を翻そうとした。
けれど、彼がリョーマの前から辞する事は失敗に終わった。外に出していたTシャツの裾を、はっしと掴まれていたせい。
ゆっくりと、乾は振り返った。
「これ、ひょっとしてレギュラー全員に配ってんスか?」
「ああ」
「じゃあ、部長にはオレが渡しておきますよ。ハイ」
そう言って、リョーマは乾のTシャツから手を離して、掌上を差し出してみせた。
含み笑いに似た笑みを浮かべていたリョーマの顔に、何か腹積りがあるのだろうかと、乾は僅かに逡巡するが、
「オレ以外の人間が部長に近付くのが最近、癪に障るんスよ」
掌を差し出したままそう告げたリョーマに、ああ、なんだそういうことかとあっさり納得し、乾は手塚用のトレーニングメニューが書いた紙を手渡す。
ちっぽけな独占欲が芽生えてきたのは良い傾向だ。
はい、と差し出された一枚の紙を見留めて、手塚は不審そうに片眉を上げた。
そして、見下ろしたままの視線で、これは何かと問う。
「乾先輩からのトレーニングメニューっすよ」
そんなに警戒しないでよ。
困った様にリョーマは笑ってみせた。彼にそんな警戒を抱かせるような事ばかりしていただろうかと合わせて自問も。
紙切れ一枚で仕掛けられる悪戯なんて、リョーマにはとんと思い付かないけれど。
リョーマの言葉に、ああ、と気付いた様な声を漏らし、いつもの淡々とした顔に戻ると手塚はやっと紙片を受け取った。
そして彼が紙面に綴られた文字を目で追っていくのをリョーマはぼんやりと眺める。手塚の顔や体は、いくら見ていたって飽きそうに無かった。この頃は特にそれが酷い。
不躾なくらいの視線に、手塚も時々、辟易した様な顔を見せるけれど、言葉にしてまで注意したりはしないものだから、リョーマのこの癖は輪をかけて次第に執拗になっていた。
「……越前」
「うん?」
不意に名前を呼ばれて、紙片を摘んだ手塚の手元に視線を注いでいたリョーマは目線を上げる。
そこには、大層不可解そうに眉を歪にさせている手塚の顔があった。
どうしたの?と問いかけつつ、小首を傾げてみせれば、手塚の方を向いていた紙の印字面がリョーマの方へと向けられた。
紙上の一番最後の行だけが、リョーマが見た限り違和感を感じる文字列だった。
「こうはいきん……かっこ、えちぜんよう?」
広背筋(越前用)
リョーマが読み上げた文字列は正確にはそう書き綴られていた。やや乱れた、乾のあの筆跡で。
それを声に出す迄の確りとした認識をしてから、リョーマは答えを求める様に手塚を再び見上げるが、視線を向かわせた手塚も又、リョーマへと不可解そうな顔をしたままだったから、明確な答えが二人の間に生まれる訳が無かった。
見詰めあった暫間の沈黙の後、ええと、とリョーマが躊躇う調子で口を開く。
「部長、背筋弱いの?」
「いや……弱くは無い、と思うんだが…」
背筋が弱くて猫背気味になっている人間ならば兎も角も、常に凛と背筋を伸ばして振舞っている手塚の姿を見ているリョーマとしても、彼のその部位がか弱いというイメージは抱かない。
余談だが、4月の体力測定では手塚の背筋の記録は部内一だ。数値にして131kg。数字オタクとも言えそうな乾に似た気質が無い手塚はそのことは失念したけれど。
「っていうか、越前用ってどゆこと?部長用のメニューだよね?」
「……書き間違え、か?」
「乾先輩に限ってそんな…」
書き損じをするどころか、書き上げてから何度も何度も推敲してそうな気がする。
幾ら、8人分のトレーニングメニューを思案し、綴っていたからと言って、名前を間違える様な失敗はしでかさないだろう。
しかも、括弧書きが付属されているのは最後のその一行のみだったりして。
明らかに意図的。リョーマはそう感じ、同意を求める様に手塚を凝っと見詰めれば、ちゃっかり同じ事に思い至っていたらしい手塚も、リョーマを見詰め乍ら厳かに首を縦に頷かせた。
取り敢えず、筋力トレーニングとしては正当なソレは、悪影響はまずは無いだろう、ということで、結局、乾の指示通りに手塚は自宅トレーニングとして背筋を鍛え始めた。
背中の筋力が鍛わる程、その身の感度が高まるとも知らず。
回数を重ねる毎に、リョーマは手塚の感度の良さに驚嘆する羽目になる。それが後輩思いの先輩からの恩恵だとは気付かぬまま。
気立ての良い男
お節介とも言います。乾。
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