モノポライズ
煮干しが一匹。
ふらふらと目の前にぶら下がっていた。からからに乾いた、けれど魚特有の香しい匂いがその小さな鼻孔をくすぐって、本能的に衝動的に、彼はかぷりとかぶりついた。
自分の手から引ったくる様にしてその乾いた小魚にがしがしと噛み付いて、ぱりぽりと軽快な音をさせて咀嚼する毛の長い彼をじいっと手塚は興味深気に眺めた。
「…洋猫も煮干しを食うんだな」
「え?」
胡座をかいた手塚の片膝の上に頭を乗せて仰向けの態勢で本を読んでいたもう一匹の猫が、タイトルも異国語の本の影からくるりと目を覗かせる。
その十本の指で広げられている本は、元はと云えば来客である手塚が家から携えてきたものだった。
予告もなく、1冊の本だけを手にぶらりと休日の午後に越前家を訪れてみれば、彼は父親とライムイエローの球を追い掛けあっていて。
まだ暫くかかるから、とコートから半ば追い出される様にして彼の部屋へと行き着いた。
彼と父親との一戦は何度かこの家を訪れた時にちらりと見た事はあるけれど、何故だかその全貌は見せてはもらえない。
彼曰く、あんな奴のテニスなんて目の毒だ、とか。
きっと、本音は別のところにあるのだろうけれど。例えば、父親にけちょんけちょんにされるその様を恋人に見られるというのは少年なりの沽券に関わるだとか。
本人に負ける気がなく、敗れていたりするのだから、その思いは猶の事なのだろう。
負ける姿が格好悪い、と考えているよりは、こてんぱんに揶われているその様が見られたくないのだろう、と思う。飽く迄、彼の従姉から伝え聞いた話が根拠でしかないけれど。
晴天に微風、とこの運動のし甲斐のある天候の午後、恐らく彼は父親との対戦中だろうと思っていたから、別にコートから追い出されても手塚に不満はない。寧ろ、予定の範疇だ。
その為の、退屈しのぎの為に持って来た1冊の本だ。
それを最後まで読み切ったところで、一風呂浴びて汗も綺麗に流しきった彼が部屋へとやってきた。彼の愛猫を従えて、その愛猫のおやつが詰まった袋を握り締めて。
お待たせ、よりも早く、疲れた、と口から言葉が飛び出して、座していた手塚の膝へとまっしぐら。猫が飼い主に懐く有り様そのままに、ごろごろと身を寄せてきた。
愛猫の為のおやつは床へと簡単に放られてしまっていた。
それから一頻り手塚の身に甘えた後、傍らに転がしておいた読後の本へとその腕は伸びて、手塚の腿の上に頭を据えて、黙々と読み始めて今に至る。
「なに?なんて?」
本は持ったまま、手塚の膝枕を逃すこともせず、リョーマは手塚を見上げた。
開かれた窓から入ってきたささやかな白南風が猫の毛にも似た柔らかい髪を玩ぶ。薫風さながらに石鹸の匂いがふわりと漂った。
「洋猫も煮干しを食うんだな、と思ってな」
「意外?」
「…と、言うか、似合わないな」
手塚は小さく苦笑する。
偏見なのかもしれないが、豊かな長い毛を纏った豪奢なイメージすらある目の前のこの種の猫が必死そうに煮干しに食らい付いている様は可笑しい。
普段、猫と触れあう機会もない手塚からすればそれは尚更。
ただ、小さな体で食欲旺盛にしている様は可愛らしくもある。
手塚はリョーマが持参してきた袋からまたひとつ、煮干しを取り出してカルピンの鼻先へとぶら下げる。
すぐに、彼は飛びついた。
奪いなどしないのに、自分だけのものだと主張するかのように勢い良くその喉へと駆っ喰らう。
「ヒマラヤンだって煮干しくらい食べるって。猫なんだから、魚が好きなのは当然でしょ?」
毛の短い日本の猫だって、煮干しを食べない猫もいる。要は育ってきた環境なのだ、というようなことをリョーマは言った。
「そうなのか」
「そうだよ。そういうもん」
そしてまたリョーマの視線は掲げられた本へと向かう。どうやら、本の中の話は佳境に差し掛かっているらしい。
自分では手塚が普段読むような本は買いも見もしないというのに、何故だか手塚が読み終わった本は読む。
ある程度に読書家な手塚のおかげでリョーマは活字を目にする機会がすっかり増えてしまった。この年頃の少年としては、世間的にみれば良いことだろう。
本は知識を与えるし、思慮も深くさせる。表現も豊かになれば、感性すら育て上げる助力となる。
読後にリョーマに奪られるのを計算に入れて、手塚も最近は読む本を選ぶようになっていた。
今日はアルファベット記述のとある冒険活劇のオハナシ。
リョーマが視線で辿るページ数も残りわずか。
彼が読み終わるまではこっちの猫とでも遊んでいるか、と、手塚はまた煮干しの袋をがさがさと漁って一匹摘み出す。
先程と同じ様に、ヒマラヤンの鼻先へとぶら下げて、彼が飛びつくのを待ち、きらりと輝かせた目をしながらゆっくりと口が開かれた。
ぱくり、と小魚は食われる。猫の口の中へと。
「……………」
けれど。
「………越前」
けれど、食欲旺盛にかぶりつく猫にさっきの様に微笑ましさを感じるのではなく、手塚は少しばかり呆れた。
眼下では活字を追いながら煮干しを咀嚼する猫へ抗議するようにベージュの色をした長毛の猫が奇妙な鳴き声をあげた。
「…越前。カルシウムを摂るのはいいことだが、」
うん、と猫は人語で相槌を返す。どうやら煮干しは食べきったらしい。
視線は活字を追ったままで。
「自分のペットのものを奪うんじゃない…」
「欲しくなったから」
つい、と猫は続ける。そのすぐ傍らで自分の間食を奪われた事に苛立つ様に別の猫が尾をぱたぱたと忙しく振っていた。
「だからと言ってだな…」
「だって」
キャッツアイの中心が印字から離れて手塚を捉える。
どこか喜色を帯びながら。
「アンタの白い指で誘われたら他の奴にあげるわけにはいかないじゃない?」
愉悦気味に薄く瞼が下り、口角が緩く吊り上がる。
リョーマお得意の不敵な笑み。手塚が弱いその貌。
片手が上製本の表紙から離れて、手塚の手を引き寄せた。
「罪作りだね」
指先に、食むような口吻けがひとつ訪れた。
君の全ては僕のもの。
君だけが僕のすべて。
モノポライズ。
手塚が関わっているものならば全て独占する心意気の王子。レッツジャイアニズム。
ペットの為のおやつも手塚があげているとなれば、そのおやつすら自分のもの。クモンジャイアニズム。
手塚が摘む煮干しに上背だけ伸びをしてかぶりつく越前さんにときめき100万点。
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